仙台藩御用絵師を代々つとめていた佐久間家の四代目・佐久間洞巌は、元禄4年1月に仙台城二の丸の奥方造営に参加し、御用絵師として順調なスタートを切ったかにみえたが、前年に従者を無断で城内に遣わし絵を描かせたり、禁制の太刀を帯びるといった振る舞いのため、この年の6月には家禄を没収され、「城下十里四方に追放」という処分を受けた。
この追放を機に、洞巌は本格的な学問の道に入り、藩内で遊佐木斎に学ぶからわら、新井白石や荻生徂徠ら江戸の儒者と親交を重ね、絵師から学者への転身をはかった。45歳で再び士籍に列せられ、50歳の時に史官となり『伊達便覧志十五巻』を著し、67歳で『奥羽観蹟聞老志三十巻』を著した。絵画作品としては、中国の故事に取材した作品や、陶淵明、李白、白居易といった唐宋詩人たちの恣意に基づいた作品を残している。
佐久間家は、洞巌に続き、五代目の如琢もしくは六代目の如節も一時期、家禄を失っており、如節の子・栄学の代からしばらく藩籍を解かれていたが、仙台藩十三代藩主慶邦の時に六所が御用絵師となり、その子・晴岳も狩野晴川院養信に学び、仙台藩御用絵師を継いだ。
佐久間洞巌(1653-1736)さくま・どうがん
承応2年仙台生まれ。名は義和、字は子巌、通称は丁徳。別号に容軒がある。仙台藩世臣新田氏の二男。17歳で佐久間友徳の養子となり佐久間家を継いだ。画を狩野洞雲に学び、仙台藩御用絵師となった。一時期職と解かれたが3年後に赦されて仙台に戻り、遊佐木斎に儒学を学んだ。著書に『伊達便覧志十五巻』『奥羽観蹟聞老志三十巻』がある。元文元年、84歳で死去した。
佐久間如琢(1681-1745)さくま・にょたく
天和元年生まれ。名は周方、本姓は鈴木。佐久間洞巌の養子。洞巌の長男・義方は28歳で没し、二男・義質は洞巌の実家である新田家を継いだため、佐久間家に養子に入った。延享2年、65歳で死去した。
佐久間栄学(1730-1773)さくま・えいがく
享保15年生まれ。佐久間如節の養子。本姓は戸祭。名は典倶、栄学と称した。画を狩野栄川院典信に学び、仙台に帰って、五代吉村、六代宗村、七代重村に仕えた。安永2年、44歳で死去した。
佐久間六所(1782-1853)さくま・ろくしょ
天明2年生まれ。佐久間洞巌の子孫で、代々仙台藩御用絵師の家系に生まれた。名は明繁、字は子簡、通称は立徳。画を狩野派に学び、仙台藩十三代藩主・慶邦の時に御用絵師となった。文久3年、72歳で死去した。
佐久間晴岳(1818-1885)さくま・せいがく
文政元年生まれ。佐久間六所の子。名は雅方、通称は立達。別号に蕉雪がある。晩年は剰民と称した。画を狩野晴川院養信に学び、妻の実父である菊田伊洲の指導を受け、仙台藩御用絵師となった。詩を油井牧山、松井竹山に学び、書を山岸介庵に学んだ。幕末に国事に奔走し藩内で投獄された。明治になってからは画塾を開いて子弟の教育にあたった。明治18年、67歳で死去した。
小田島椿所(1820-1884)おだじま・ちんしょ
文政3年生まれ。名は頼恒、通称は為之助、のちに融と改めた。佐久間六所に学び、高橋容所、杉沼牛所と並んで六所門下の三所と称された。明治17年、65歳で死去した。
宮城(2)-画人伝・INDEX
文献:仙台藩絵師 佐久間洞巌、仙台藩の絵師、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市博物館館蔵名品図録