画人伝・三重 南画・文人画家 山水・真景

池大雅と韓天寿

池大雅「山水図」

曾我蕭白とともに伊勢地方を訪れた代表画家に、池大雅(1723-1776)がいる。大雅は特に松阪に多くの作品を残していて、これは京都に生まれ松阪に移り住んだ韓天寿の存在を抜きには語れない。

韓天寿「山水図」

韓天寿(1727-1795)は、享保12年京都の青木家に生まれた。姓の「韓」は青木家の祖と言われる馬韓の余璋王によるもので、字は大年、本名は中川長四郎。中国・東晋の書家である王羲之や王献之に心酔し、号を「酔晋」とした。15歳の時に京都で池大雅、高芙蓉と出会い、この頃に松阪で両替商などを営む中川家の養子となり松阪に移り住み、33歳で第5代中川清三郎を継いだ。

松阪に移ってからも池大雅、高芙蓉との交遊は生涯変わらず続き、天寿が26歳の時には池大雅と玉瀾の結婚の晩酌をしている。34歳の時に3人連れ立って白山、立山、富士山を登山し、互いに「三岳道者」と称した。「書画」の大雅、「篆刻」の芙蓉、「法帖」の天寿として中国文人趣味の神髄に迫った。

天寿は、当時の摸刻墨帖の第一人者と称され、来日した朝鮮通信使たちにも賞賛されたという。その代表的な作品が『岡寺版集帖』である。『岡寺版集帖』は、親集帖十巻、子集帖十巻、孫集帖十巻、曾孫集帖七巻の計37巻からなり、親集帖は安永9年頃の刊行で巻末に天寿と無倪の跋文がある。子集帖は寛政10年の刊行で天寿はすでに没しており、継寺八世住職の無倪和尚が天寿の遺志を継ぎ、刊行に尽力した。

池玉瀾(1728-1784)いけ・ぎょくらん 
享保13年京都生まれ。池大雅の妻。名は町、別号に松風、葛覃居などがある。玉瀾の母・百合は祇園の茶店で働いており、文学を好み、和歌をよくした。娘の玉瀾にも文学を推奨し、柳里恭(柳沢淇園)が在京の日、その門に入れた。淇園は自分の別号である「玉奎」の一字を取って玉瀾の号を与えたという。百合は自らの品行を慎みながら娘を育て、玉瀾は評判の佳人となった。池大雅との縁も百合が取り持ったもので、百合は池大雅が、貧窮を顧みず、書画を楽しみ、俗世間から離れた崇高な姿勢を貫いていることに痛く感じ入り、玉瀾に薦めて嫁がせたという。人々はお似合いの良縁だと祝福した。
玉瀾の画風は大雅によく似て、筆跡は巧みで、山水、四君子を得意とした。大雅は文学上の教育にも理解があり、結婚数年後には夫婦ともに名高くなり、高貴な席に招かれるようになったが、大雅は高名な画家ながら謙虚で、妻は夫に似て純朴だったという。大雅没後は京都東山眞葛原の大雅堂に住み、天明4年、57歳で死去した。

青木夙夜「洞庭湖図」

青木夙夜(不明-1802)あおき・しゅくや
名は浚明、字は大初または夙夜、通称は荘石衛門。韓天寿の実父の二男。天寿を頼って松阪にたびたび逗留し、多くの作品を残している。なかでも伊孚九を臨書した魚町・長谷川家の「離合山水図」が知られている。大雅堂二世と称していた。大雅没後は、玉瀾が居る大雅堂に住み、また月峯、清亮と相次いで住んだといわれる。『近世雅画伝』によると、夙夜が大雅堂に住んでいた時は、門を閉じてなるべく世人と隔たるようにしていた。それは夙夜の性格によるもので、画の依頼者はもちろん、意気投合する話相手もなく、真の貧居であったという。寛政元年、大雅堂で病死した。

無倪(1744-1811)むげい
寛保2年紀州藩士の宇治家に生まれた。諱は快雄、字は大寂、号は獅子吼堂。韓天寿が養子に入った中川家に隣接する岡寺山継松寺の八世。天寿が精魂込めた『岡寺版集帖』刊行の最大の協力者で、天寿亡き後も刊行に努めた。文化8年、68歳で死去した。

悟心元明(1711-1780)ごしん・げんみょう
正徳3年松阪本町生まれ。松阪の外科医・松本駝堂の二男。姓は松本、名は駄堂、通称は悟心。明千庵、一雨、逍遙と号した。相可の法泉寺の六代住職で、韓天寿、池大雅とも深く交わり、文人僧として詩、書画をよくした。天明5年、73歳で死去した。

三重(2)画人伝・INDEX

文献:韓天寿とその周辺三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳




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