画人伝・京都 狩野派 風俗図・日常風景

豊臣家の御用絵師をつとめた狩野内膳

狩野内膳「南蛮屏風」(部分)重文 神戸市立博物館蔵

狩野内膳「南蛮屏風」(部分)重文 神戸市立博物館蔵

狩野内膳(1570-1616)は、戦国武将として名をはせた伊丹城主・荒木村重の家臣の家に生まれた。9歳の時に根来寺蜜厳院に預けられたが、織田信長によって荒木家が滅ぼされたため、のちに環俗し、狩野松栄に入門して画を学び、18歳の時に狩野姓を許された。

その後、豊臣秀吉・秀頼の信任を得て豊臣家の御用絵師となり、豊臣家の天下における華やかさを記録するため、風俗画のジャンルにも手腕を発揮した。なかでも「南蛮屏風」と「豊国祭礼図屏風」は、桃山という時代の様相を語るとき必ず引き合いに出されるほどの風俗画の傑作と評されている。

文禄元年、内膳は光信に同行して肥前名護屋城の障壁制作に参加し、その翌年には長崎を訪れている。「南蛮屏風」(掲載作品)には、その時の視覚体験が活かされていると思われ、秀吉の王権に献上された南蛮渡来のアラビア馬や黒象が描き込まれ、細部まで精密に描写されている。

慶長20年、豊臣家は大坂夏の陣で滅亡し、その跡を追うように内膳も翌年京都で没した。しかし、内膳の画系は表絵師・根岸御行松狩野家として幕末まで続き、国絵図制作という特殊なジャンルを得意とした。

狩野内膳(1570-1616)かのう・ないぜん
元亀元年生まれ。名は重郷。別号に一翁がある。僧籍に入ったのち還俗して狩野松栄に入門、狩野姓をゆるされ、豊臣家の御用絵師をつとめた。代表作「南蛮屏風」「豊国祭図屏風」のほか簡素な筆致による水墨の人物画・花鳥図なども数多く手掛けた。元和2年、47歳で死去した。

京都(60)-画人伝・INDEX

文献:狩野派決定版、狩野永徳と京狩野、日本絵画名作101選、日本の美術17 桃山の風俗画、日本美術全集10




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