昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村~」と題して一村の画業が紹介され、大きな反響を呼んだ。翌年には一躍有名画家となった一村の作品集が刊行され、展覧会が全国各地を巡回した。無名だった田中一村は、文字通り一夜にして「孤高の天才画家」になってしまったのである。
もともと幼いころから絵を描いては神童といわれた。彫刻家の父はその画才に歓喜して「米邨」の雅号を与え、作画の後押しをした。一村少年は作画三昧の生活を送り、周囲の期待通りに東京美術学校日本画科に入学した。同級生には東山魁夷、橋本明治、加藤栄三、山田申吾ら錚々たるメンバーがいた。しかし、一村は2カ月余りで同校を退学してしまう。学校を辞めた理由は定かではないが、もし、この時、もうすこし在学していれば、のちに巨匠となった同級生たちと共に新しい美術運動を展開し、近代日本美術史に名を刻んでいたかもしれない。
公募展とも縁がなかった一村だが、39歳の時に川端龍子が主催する青龍社の第1回展に出品している。この年、新たな出発を期して雅号を「一村」と改め、翌年の第2回展にも2点出品した。しかし、そのうち1点は入選したが、残りの自信作のほうが落選してしまい、このことで龍子と衝突、他の1点の入選を辞退して青龍社を離れてしまった。もし、この時、青龍社に留まっていれば、龍子の大画面主義のもと一村の新たな才能が開花し、日本画壇の勢力地図を塗り替えていたかもしれない。しかし、一村は自ら身を引き、やがて画壇とは無縁になっていった。
奄美大島に移住することを決意したのは50歳の時である。一村は、千葉の家を売り、奄美大島での生活にむけて、画業10年計画なるものを立てた。それは「5年働いて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」というものだった。しかし、その10年が過ぎても個展は開催できず、働いては辞めて絵を描き、また働くということを繰り返しているうちに体調を崩し、69歳の時、夕食の準備中に心不全で急逝した。
生前は個展をすることも叶わなかった一村だが、島の人には、自身をゴッホやゴーギャンになぞらえ「私の死後、50年か100年後に私の絵を認めてくれる人が出てくればいいのです。私はそのために描いているのです」と語っていたという。報われない画家のほとんど、いやすべてが口にするであろう、このありふれた台詞が、田中一村が達成できた唯一の「計画」になってしまった。
田中一村(1908-1977)
明治41年栃木県下都賀郡栃木町生まれ。彫刻家・田中稲村の長男。本名は孝。大正元年、4歳で東京市麹町に移った。大正4年、7歳の時に児童画展で天皇賞(文部大臣賞ともいわれる)を受賞し、父から米邨の号を与えられる。大正10年芝中学校に入学、学業のかたわら南画の制作・研究を行なった。大正15年4月に東京美術学校日本画科に入学したが、同年6月に退学。東京を数度移転したのち、昭和13年、30歳の時に千葉市千葉寺に移住。船橋市の工場で板金工として働くが、体調を崩し終戦まで闘病生活を続けた。昭和22年、39歳の時に青龍社に「白い花」が入選、雅号を米邨から一村に改めた。しかし、翌年青龍社に2点出品したが、自信作「秋晴れ」が落選したことに納得せず、川端龍子と衝突、他の1点の入選を辞退して、青龍社を離れた。昭和27年、44歳の時にカメラに興味を持ち、姉喜美子をモデルにしたり、風景を撮影した。昭和30年、四国、九州を旅行。まず和歌山に出て、四国、九州を回り、さらに、種子島、屋久島、トカラ列島まで足を延ばし、南国の自然に魅了された。昭和33年、50歳の時に奄美大島行きを決意。資金準備のために千葉の家を売り移住。名瀬市大熊の紬工場で染色工として働き「5年働いて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」という画業10年計画を立てる。昭和42年、59歳の時に5年間働いた紬工場をやめ、絵画制作に専念。以降3年間に奄美時代の主要な作品が描かれたと思われる。62歳で再び紬工場で働き出し、64歳で再び工場を辞め絵に専念するが、腰痛、めまいなど体調は悪化。68歳の夏、畑仕事の最中に軽い脳溢血で倒れ入院。翌昭和52年、体調はやや回復していたが、夕食の準備中に心不全で倒れ、69歳で死去した。
鹿児島(30)-画人伝・INDEX
文献:田中一村作品集、奄美に描く田中一村、孤高・異端の日本画家 田中一村の世界