加賀藩三代藩主・前田利常(1593-1658)は、初代利家、二代利長が帰依した社寺の復興・修復や、自身による新築を盛んに行ない、それに関わる建築や内部装飾の名工を広く呼び集めたため、金沢城下は国内でも有数の文化事業の発信地として発展した。
利常は、幕府の御用絵師・狩野探幽にもたびたび絵を依頼しており、一説には、寛永年間に探幽が金沢を訪れ、天徳院に「四聖図襖絵」を描いたと伝わっている。また、探幽門下の久隅守景(不明-不明)も2度ほど加賀藩を訪れ、この地で代表作といえる作品を制作したとみられている。
久隅守景の詳しい経歴は不詳だが、狩野探幽に入門して早くから頭角をあらわし、探幽門下四天王の筆頭と目されるまでになり、将来を嘱望されて探幽の姪と結婚したが、娘の清原雪信(1643-1682)は探幽の弟子と駆け落ちし、息子の彦十郎(狩野胖幽)は同門の絵師と諍いを起こして佐渡に島流しになるなど身内の不祥事が続き、そのため守景は探幽のもとを離れたと思われる。
狩野派という後ろ盾を失い、家族は離散状態になったが、そんな逆境のなかでも守景は精力的に制作を続けていたとみられ、多くの作品を残している。晩年の一時期には加賀藩前田家に招かれ、国宝「納涼図屏風」(掲載作品)などの代表作を金沢の地で制作したとみられており、旧加賀藩領域を中心とした北陸地方には、守景の作品が多く残されている。
久隅守景(不明-不明)くすみ・もりかげ
生地は不詳。通称は半兵衛。無礒斎、無下斎、一陳翁、捧印などと号した。狩野探幽に師事し探幽門下四天王の筆頭と称された。妻の国は、探幽の姪で四天王の一人・神足高雲の娘。彦十郎、雪、信の3人の子どもがおり、信はのちに探幽の養女となり探幽の高弟・池田幽石のもとに嫁いだ。京都知恩院方丈の作画や、近江国坂本の聖衆来迎寺客殿の障壁画などの制作に携わった。最晩年には、京都に移住して余生を過ごしたと伝えられている。
清原雪信(1643-1682)きよはら・ゆきのぶ
寛永20年京都生まれ。久隅守景の娘、狩野探幽の姪孫。名は雪、雪信女と称した。探幽に学び、探幽の名守信から一字許されて「雪信」と号した。清原姓は狩野家と縁戚関係にあった母方の本姓に由来するものと考えられている。探幽門下の平野伊兵衛守清と駆け落ちしたと伝わっている。探幽様式を忠実に受け継ぎ、人物画、花鳥画を得意とし、京都を中心とした関西圏で活躍した。優美な作風で人気を博し、井原西鶴の『好色一代男』にも名前が登場している。天和2年、40歳で死去した。
石川(04)-画人伝・INDEX
文献:不軌の絵師 久隅守景と加賀藩、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成