京都で竹内栖鳳に師事した兵庫県ゆかりの日本画家としては、橋本関雪、森月城、三木翠山、立脇泰山、村上華岳のほか、宮崎翠濤、松井香瑤、土肥蒼樹、山本紅雲、濱田観、中田晃陽らがいる。
姫路市に生まれた濱田観(1898-1985)は、幼いころから画を好み、14歳から7年余りを神戸で過ごし、大谷玉翠に画の手ほどきを受けた。その後大阪に出て、生活のために図案や呉服の下絵などの仕事をしながら苦学し、信濃橋洋画研究所にも通っていたという。
本格的に日本画を学ぶ環境が整ったのは、31歳の時に京都に移り竹内栖鳳に師事してからで、その後、35歳で京都市立絵画専門学校に入り、この年帝展に初入選した。この頃から芥子をモチーフにした佳作を多く発表し、一時は「ケシの画家」と称された。戦後は日展を舞台に活躍した。
濱田観(1898-1985)はまだ・かん
明治31年兵庫県姫路市生まれ。本名は仙太郎。はじめ神戸で大谷玉翠に学び、昭和4年竹内栖鳳に師事した。昭和8年京都市立絵画専門学校に入学、昭和16年同研究科修了。昭和8年第14回帝展で初入選し、以後新文展に出品を続けた。昭和11年栖鳳門下で葱青社を結成。昭和22年第3回日展で特選。昭和24年第5回日展で特選。昭和38年第6回新日展で文部大臣賞受賞。昭和40年日本芸術院賞受賞、昭和59年日本芸術院会員となった。昭和60年、87歳で死去した。
宮崎翠濤(1882?-1952)みやざき・すいじゅ
明治15年頃兵庫県神戸市生まれ。本名は末吉。父は六甲山を開いた英国人のアーサー・グルーム。明治31年竹内栖鳳の門に入り、内弟子となった。神戸画壇との関わりは、明治38年に橋本関雪、奥田松園、寺井南滄、喜多琴仙らとともに研精画会を再興したことに始まり、その後神戸に戻り籠池通に画室を設け、松井関月、平井誠芳らと五青会を結成、やがて翠濤画塾水曜会へと発展した。大正期は若葉会展、神戸絵画展などに出品し、大正11年神戸美術協会の創設に参加した。以後、県展委員をつとめた。昭和27年死去した。
松井香瑤(1894-不明)まつい・こうよう
明治27年京都市生まれ。本名は清。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校に学び、竹内栖鳳に師事した。在学中の大正2年第7回文展で初入選した。卒業後は入江波光とともに古典の模写に従事した。兵庫県画壇との関わりは、昭和16年頃に水越松南に誘われて兵庫県新美術連盟展に出品したことから始まり、戦後は兵庫県日本画家連盟の創立に参加した。
土肥蒼樹(1895-1945)どひ・そうじゅ
明治28年兵庫県加東郡東上町生まれ。本名は健治。旧号は南甫。16歳ころ京都に出て竹内栖鳳に師事した。以後、晩年に明石に疎開するまで京都で活動した。大正8年第1回帝展で初入選、以後、帝展、新文展に出品した。兵庫県美術協会にも参加した。昭和20年、50歳で死去した。
山本紅雲(1896-1993)やまもと・こううん
明治29年兵庫県伊丹市生まれ。本名は利三郎。はじめ岡田姓を名乗っていた。6歳ころ一家で京都に移り、京都市立絵画専門学校で学び、大正3年竹内栖鳳に師事した。大正6年第11回文展で初入選し、以後も官展に出品した。昭和に入って竹杖会幹事となった。昭和12年同世代の徳岡神泉、中田晃陽らと研究団体「竹立会」を結成。兵庫県美術協会にも関わった。平成5年、96歳で死去した。
中田晃陽(1901-1977)なかた・こうよう
明治34年兵庫県神戸市生まれ。本名は一雄。京都に出て竹内栖鳳に師事した。昭和9年第15回帝展で初入選。昭和13年第2回文展に入選、昭和15年紀元2600年奉祝美術展に入選し、戦後は日展に出品し会友となった。昭和12年同世代の徳岡神泉、山本紅雲らと研究団体「竹立会」を結成。京都に住んでいたが、兵庫県美術協会にも県展委員として名を連ねた。昭和52年、75歳で死去した。
兵庫(43)-画人伝・INDEX
文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展