青山熊治(1886-1932)は、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)に生まれた。同じ生野出身の白滝幾之助、和田三造とともに「生野の三巨匠」と称されており、3人はいずれも東京美術学校西洋画科で学び、白馬会展や文展で活躍した。青山の上京の前後には白滝と和田が同郷の先輩として手助けしたという。
上京した青山は、はじめ高木背水に師事し、その後東京美術学校に入学した。明治40年、東京勧業博覧会で2等賞を受賞して画壇デビューを果たし、その後も白馬会で「アイヌ」が白馬賞、文展で「九十九里」が3等賞、「金仏」が2等賞と立て続けに大きな賞を受賞し、若手のホープとして注目された。
大正3年、青山は欧州留学を決意し、当時一般的だった海路はとらずに、満州からシベリア鉄道を経由し、途中で旅費を稼ぎながら陸路でパリを目指した。しかし、ロシアに入り念願のパリに近づいたところで第一次世界大戦が勃発し、足止めされて同地に滞在、その後スカンジナビア、イギリスを経て大正4年8月、ようやくパリにたどり着いた。
フランスでは多くの日本人画家と交流し、欧州内の作品を見て歩くなど貴重な体験をしたが、一方で友人の洋画家・原勝四郎ときこりに従事するなど極めて貧しい生活を送っていた。しかし、再三の帰国の勧めも断り続けて欧州に滞在し、大正11年に知人の援助で帰国するまで9年の歳月を要した。
帰国してからも展覧会に出品することなく沈黙を保ち続け、ついに「金仏」が2等賞を受賞してから15年の歳月が過ぎた大正15年、満を持して第7回帝展に3メートルを超える大作「高原」(掲載作品)を出品し、この作品で特選を得て、さらに当時最高の賞とされた帝国美術院賞も受賞、華々しい画壇への再登場を飾って世間を驚かせた。
以後壁画など大作を発表して精力的に活動し、さらなる活躍が期待されたが、昭和11年、長兄の病を見舞うために帰省していた生野町で46歳で急逝した。
青山熊治(1886-1932)あおやま・くまじ
明治19年兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)生まれ。上京して高木背水に学んだのち、明治37東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝、岡田三郎助に学んだ。明治40年東京勧業博覧会で2等賞を受賞、さらに明治43年第13回白馬会展で白馬会賞、同年第4回文展で3等賞、翌年の第5回文展でも2等賞を受賞した。大正3年モスクワを経てパリに留学。9年間ヨーロッパ各地を放浪しつつ苦学を重ね大正11年に帰国した。大正15年第7年帝展で「高原」が特選となり、帝国美術院賞も受賞、帝展審査員もつとめた。昭和4年片多徳郎らと第一美術協会を創立。昭和7年、46歳で死去した。
兵庫(28)-画人伝・INDEX
文献:兵庫の美術家県内洋画壇回顧展、青山熊治展、兵庫県立美術館所蔵作品選、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展