橋本関雪(1883-1945)は、兵庫県八部郡坂本村(現在の神戸市中央区)に生まれた。父親の関海は旧明石藩の藩者で、関雪も父の薫陶を受けて育ち、早くから漢学の素養を身につけた。さらに早熟な画才をあらわし、12歳で四条派の片岡公曠に学び、15歳の時に一時上京したが、翌年には神戸に帰った。
明治36年、20歳の時に光村利藻の紹介で京都に出て竹内栖鳳の竹杖会に入門した。23歳の時には、神戸の若手画家を集めて神戸絵画研精会を再興し、機関紙「白毫」を発行、神戸画壇の形成に寄与した。
明治41年、25歳の時に再び上京して第2回文展で入選を果たし、その後第10回展、11回展で特選となるなど受賞を重ねた。大正2年、京都に戻り、同年初めて中国を旅行し、その後もたびたび中国にわたった。大正5年には銀閣寺の近くに居を定めて「白沙村荘」と名付け、ここを拠点に京都画壇で活躍した。
四条派伝統の写実的動物画も多く描いているが、琳派、南画などの研究や漢学の素養に基づく中国古画の研究にも情熱をそそぎ、深い学識をもとに中国の故事や風景を題材とした作品も多く残している。
橋本関雪(1883-1945)はしもと・かんせつ
明治16年兵庫県八部郡坂本村(現在の神戸市中央区)生まれ。幼名は成常、のちに関一と改めた。父は旧明石藩儒者・橋本海関。明治23年湊川尋常高等小学校に入学し、かたわら父に漢学を学んだ。明治24年片岡公曠に師事。明治31年一時上京するが翌年には神戸に帰った。明治36年竹内栖鳳に師事。明治38年満州軍司令部嘱託として従軍。明治41年上京して谷中に住み、同年第2回文展で初入選、以後文展に出品して受賞を重ねた。大正2年京都に移住、同年初めて中国に遊学。大正5年の第10回文展と翌年の11回展で連続特選。大正7年には長井一禾を助けて神戸絵画協会を結成。大正8年第1回帝展審査員。大正10年渡欧、フランス、ドイツ イタリヤなどを遊歴。大正11年帝展審査員。大正12年には栖鳳の竹杖会を脱会。昭和9年帝室技芸員となり、翌年帝国美術院会員となったが辞表を提出。昭和12年には帝国芸術院会員となった。昭和20年、63歳で死去した。
兵庫(24)-画人伝・INDEX
文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、明石ゆかりの名品展、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展