伊勢国に生まれた松浦武四郎(1818-1888)は、幼いころから旅にあこがれ、16歳の時にひとりで江戸まで歩いて旅をし、17歳からは全国各地を旅するようになった。21歳の時から3年ほど長崎の平戸で僧侶として過ごしていた時、ロシアがたびたび南下して蝦夷地に来ていることを知り、日本を守らねばという強い気持ちから、蝦夷地に渡ることを決意、20代後半から30代前半にかけて、蝦夷地に3回渡り、アイヌとともに暮らしながら、その文化や風俗を調査した。
その後、安政2年には幕府お雇いとなり、さらに蝦夷地に3回渡り、同地の調査や地図作成にあたった。6回に及ぶ蝦夷地調査を終え、41歳の時に幕府お雇いを辞任して著作生活に入り、翌年にはアイヌの生活を図解入りで詳しく紹介した『蝦夷漫画』を出版した。この『蝦夷漫画』は、同じ伊勢国出身の先輩・村上島之允の業績である『蝦夷島奇観』を意識し、模写したり、その図を多数借りてアイヌのさまざまな風俗を紹介している。これは同化政策によって蝦夷地の風俗習慣が失われていくことを惜しんでアイヌ文化を記録した村上島之允の精神に、大きな影響を受けていたからであると思われる。
その後出版した蝦夷地関連の著作も評判を呼び、松浦の名前は高まっていった。そして明治2年、明治新政府から開拓吏の開拓判官に任命され、蝦夷地に代わる新しい名前を付けることになった。松浦は「この土地に生まれた者」という意味のアイヌ語「カイ」を入れて「北加伊道」と名付け、最終的には「北海道」に決定した。その後は、行政のアイヌ文化に対する差別的な対応に抗議すべく、政府役職を辞して、国内各地に旅に出て余生を過ごした。
松浦武四郎(1818-1888)
文政元年伊勢国一志郡須川村生まれ。郷士・松浦桂介の四男。諱は弘、号としては竹四郎、憂北生、多気志楼、北海道人などがある。13歳の時に津藩・平松楽斉の塾に学んだ。20代後半から30代前半にかけて、蝦夷地に3回渡り、安政2年、幕府お雇いとなり蝦夷地御用係りとして、さらに3度蝦夷地に渡り同地の調査や地図作成にあたった。安政6年、幕府お雇いを辞任して著作生活に入った。明治新政府が誕生して蝦夷地に開拓吏が設置されると、開拓判官に任命され、蝦夷地を「北海道」と命名して国郡名の選定にあたったが、翌年に従五位の官位を返上して引退した。その後は著作や国内各地への紀行によって余生を過ごし、明治21年、71歳で死去した。
北海道(12)-画人伝・INDEX
文献:松浦武四郎紀行集(下)、道をあるき、道をつくる。松浦武四郎、「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術