画人伝・東三河 南画・文人画家 花鳥画

崋椿系が根付く前の東三河画壇(2)

鈴木拳山「竹鶏図」

鈴木拳山(1842-1915)すずき・きょざん
天保13年宝飯郡下地村(現在の豊橋市)生まれ。名は潜、字は子龍。前号に龍雨または成道がある。嘉永5年頃から稲田文笠の門で学び、のちに江戸に出て鈴木鵞湖に師事した。明治元年以後、号を拳山と改め、深く画事を研究するため、近江、美濃、信濃、伊勢の各地を遊歴した。終生独身を通し、酒を飲んでは描く生活を送った。大正4年、74歳で死去した。

星野田斉(不明-不明)ほしの・でんさい
関東地方の出身で、文久、慶応の頃に吉田に足を止め、本町の金子家に長く滞在した。別号に天福道人ある。鉄筆画を得意とした。

土井平所(不明-不明)どい・へいじょ
御油の問屋役で、通称は竹屋権四郎、別号に蒲碧堂、蘭竹草堂がある。

榊原翠塘(不明-1870)さかきばら・すいとう
湊町の表具屋で、名は孫兵衛。石峰門下で、表具屋の傍ら彫刻をよくした。湊町神明社の二尊の大額、悟真寺専称軒の涅槃像が代表作である。明治3年、62歳で死去した。

了覚(不明-不明)りょうかく
札木本陣・山田新右衛門の子。仁連木の臨済寺で得度し、僧籍に入った。豊橋市中八町神明社の掛額一面は了覚の筆といわれる。

佐藤梅鄰(1805-1873)さとう・ばいりん
船町の佐藤新兵衛大寛の子。佐藤新兵衛を襲名、のちに孫平とした。名は維淳、字は伯還。幼い頃から石峰について学んだ。のちに志をたて、京都の鈴木南領の門に入る。さらに岡本豊彦に師事し、四条派の画をよくした。茶道は堀田宗完に学び、豊彦の門にいた頃には、原田圭岳、柴田是真と特に親交があった。文政の頃、家政を継ぐが、終生画を描き、多くの遺墨を残している。明治6年、69歳で死去した。

夏目周岳(1807?-1875)なつめ・しゅうがく→参考:尾張11
上伝馬町の表具師・夏目三之助の弟で、通称は重八。名古屋の渡辺清について土佐派を学び、和歌、俳句もよくした。明治8年、68歳で死去した。

山田永豊(1849-1884)やまだ・えいほう
吉田藩のお抱え絵師・山田洞雪の孫で、香雪の子。字は修、別号に秋錦堂がある。父・香雪が早逝し、9歳で家を継いだ。画筆をもって藩に仕える家柄のため、幼い頃から佐竹永海について画を学んだが、成年した頃に明治維新の廃藩のため祿を失い、画業も完成の域に達したとはいえない。明治17年11月、36歳で死去した。

内藤飛雪(不明-1886)ないとう・ひせつ
豊橋上伝馬町の笹屋という金物屋で、名は源蔵。本町の大問屋で勢力のあった九文字屋源兵衛の実弟。で知られる夏目可敬の家を株付で買って別家とした。俳人・佐野蓬宇の高弟で、俳画もよくした。明治の初めに隣地に家を新築し、鋒々舎と称して、新刊書籍の販売と新聞の配達を創始した。明治19年死去。

山田太古(不明-1888)やまだ・たいこ
札木町本陣江戸屋の主人で、名は新一郎。篆刻を得意とし、墨画もよくした。明治21年、41歳で死去した。

東三河(4)画人伝・INDEX

文献:東三画人伝とよかわの美術家たち




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