江戸前期の東三河画人としては、元禄年間に久世出雲守が吉田藩主だった頃にお抱え絵師として横田養休がいた。抱六町辺(現在の花園町付近)に住んでいたと言われ、喜見寺のや吉田神社の絵馬に遺墨が残っている。江戸中期から後期にかけては、大須賀鬼卵(1744-1823)や横井金谷(1761-1832)らが現れ、のちの東三河画壇に大きな影響をおよぼす渡辺崋山(1793-1841)が江戸の田原藩邸に誕生する。
佐藤南澗(不明-1807)さとう・なんかん
船町佐藤新兵衛の二男で、名を弥次郎兵衛という。諱は徳柄、字は大謙、別号に欄干坊がある。京都に遊学し、円山応挙の門に入り、数年のあと帰郷して吉田において初めて円山派の写生画を描いた。文化4年1月24日、59歳で死去した。
湛木澄山(不明-1809)たたえぎ・ちょうざん
牛川正太寺の住職。名古屋市妙圓寺に涅槃像の大作が残っている。文化6年、62歳で死去した。
了願(不明-1822)りょうがん
花園町浄円寺の十二世。幼名は吟丸、諱は了願、号は法雲庵。漢学、国学に優れ、画もよくしたが、現存する作品は見当たらない。文政5年12月2日、57歳で死去した。
加藤宝鶏(不明-1831)かとう・ほうけい
名は立參。家業のかたわら画をよくした。祖は信州立石の城主三好長晴の二子善左衛門義廣で、武田信玄に敗れて西ノ郡に逃れ加藤姓を名乗った。作品はほとんで残っていない。
鳥居靖斉(不明-不明)とりい・せいさい
魚町の加納屋の主人。名は新三郎。文化年間に豊川で緑毛の亀が捕獲され、これは瑞祥であるとし、靖斉が写生画を描くことになった。築満や天津がこれに賛をしたものが今も散見される。落款はなく「鳥獣之印」という印が押されている。
木村紅蓼(1777?-1836)きむら・こうりょう
通称は伊佐衛門、名は正教。呉服町の富商九文字屋七代の主人。木村清蔭の孫。 天保7年、59歳で死去。
東三河(1)-画人伝・INDEX
文献:東三画人伝