田中青坪(1903-1994)は、明治36年に群馬県前橋市に生まれ、3歳の時に一家で東京の浅草に移り住んだ。幼いころから絵に興味を持ち、小学校5、6年の時には油絵を描いていた。15歳の時に画家を志して神田錦城中学を3年で中退し、太平洋画会研究所で本格的に洋画を学びはじめた。
18歳の時に日本画家・小茂田青樹の作品を見て感銘を受け、その後青樹に師事して日本画に転向した。21歳で再興第11回院展で初入選し、以後連続して入選、昭和7年、29歳の時に小倉遊亀、奥村土牛とともに日本美術院同人に推挙された。当時の最年少同人だった。以後院展を舞台に、モダンで繊細な感覚を活かして新しい日本画の創造を模索し続けた。
昭和19年、41歳の時に東京美術学校(東京芸術大学の前身)の改革によって山本丘人とともに同校の助教授となり、昭和34年、東京芸術大学の教授となった。昭和39年、同校の同僚だった須田珙中が急逝したため、水戸偕楽園内にある好文亭の襖絵の仕事を青坪が引き継いだ。植物の名前がつけられた9室のうち、菊、桃、ツツジ、竹、桜の間を青坪が担当し、それぞれの室名にちなんだ植物が描かれており、青坪のまとまった作品を観ることができる。
田中青坪(1903-1994)たなか・せいひょう
明治36年前橋市生まれ。本名は文雄。3歳の時に東京に移住した。東京神田の錦城中学校を3年で中退した後、大正7年から太平洋画会研究所で洋画を学び、大正10年に小茂田青樹に師事して日本画に転向した。同年日本美術院試作展で日本美術院賞二席、翌年同展で日本美術院賞一席となった。大正13年第11回院展で初入選、以後連続して入選し、昭和7年日本美術院同人に推挙された。昭和19年東京美術学校助教授となり、昭和34年東京芸術大学教授となった。昭和42年第52回院展で文部大臣賞受賞、昭和53年第62回院展で文化庁の買い上げとなった。群馬県展には発足時に運営委員として関与し、県美術会顧問もつとめた。平成6年、90歳で死去した。
群馬(34)-画人伝・INDEX
文献:田中青坪 永遠のモダンボーイ、群馬の近代美術、群馬の美術 1941-2009 群馬美術協会の結成から現代まで、群馬県人名大事典