松本宏洞(1827-1911)は、佐波郡大正寺村(現在の伊勢崎市大正寺町)の名族の家に生まれた。7歳から書をはじめ、10歳で儒教の経典である五経を素読したといわれる。21歳の時に江戸に出て、中澤雪城に書法を学び、雪城の紹介で福田半香に師事し、南画を修めた。
母の病のため一時帰郷したが、母の没後は再び江戸に戻り、雪城宅に寄寓して、師の紹介で大橋訥庵について経義を学んだ。37歳の時、嵯峨御所大覚寺の坊官である野路井家から依頼を受けて屏風を献上し、法眼に叙された。
尊王家として知られ、40歳頃までは江戸と上州の間を往来してたが、明治維新前に帰郷して定住、村内に塾を設け、教育に尽力し、明治2年以降は郷里の私学25校の設置を統括した。南画、書法、教育など各面にわたって多くの門人がいるが、南画では関根青洲(1837-1901)らがいる。
松本宏洞(1827-1911)まつもと・こうどう
文政10年佐波郡大正寺村(現在の伊勢崎市大正寺町)生まれ。名は詢、字は子均。別号に易々散人、陽々山人、遊龍子、宜読楼などがある。天保7年7歳から書をはじめ、10歳で儒教の経典である五経を素読したといわれる。弘化4年、21歳の時に江戸に出て、はじめは市河米庵、のちに巻菱湖に入門し、巻菱湖門下の中澤雪城に書を、福田半香に画を学んだ。母の病のため一度帰郷したが、母の没後はまた江戸に戻り、雪城宅に寄宿しながら大橋訥庵について経義を学んだ。文久元年嵯峨御所大覚寺の坊官である野路井家から依頼を受けて屏風を制作、法眼位を与えられた。尊王家として知られたが、明治維新後は村内に塾を設け、教育に尽力し、明治2年以降は郷里の私学25校の設置を統括した。詩文書画をよくし、日光に遊んでその72瀑を写したという。また妙義山真景図巻を残した。著書に『詩文稿』『憂国微言』『活画論』『萍水日乗』『行書千字文』などがあり、没後に門下による『宏洞先生遺墨集』『宏洞百詩』が刊行された。明治44年、84歳で死去した。
関根青洲(1837-1901)せきね・せいしゅう
天保8年那波郡柴町生まれ。名は知行、通称は孝平。幼いころから学問、書法を好み、江戸に出て中澤雪城の門に入った。また、郷里の松本宏洞に画法を学び、波浪図をよく描いた。広瀬半湖について俳諧も学んだ。明治34年、64歳で死去した。
群馬(10)-画人伝・INDEX
文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、上毛南画史、群馬県人名大事典