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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま北関東地方を探索中。



画人伝・栃木 日本洋画の先覚者 風俗図・日常風景

幕末幻の油絵師・島霞谷

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島霞谷「子供灰神楽」

島霞谷「子供灰神楽」

「近代洋画の父」と称される高橋由一(1828-1894)は、下野国佐野藩の江戸藩邸に生まれた栃木県ゆかりの画家だが、高橋家は定府だったため江戸住まいで、参勤交代で国元に帰ることもなく、佐野に屋敷はなかった。由一が佐野の地を訪れたかどうかについては、現在のところ史料は見つかっていない。

由一より一歳年長の島霞谷(1827-1870)は、栃木町(現在の栃木市)の旅籠屋角屋に生まれた。生家は代々商人で、霞谷の父英琳も絵を好み、美人画を得意としていた。霞谷ははじめ父に絵の手ほどきを受けて画才をあらわし、21歳の時に画家を志して江戸に上り、椿椿山の画塾・琢華堂に入塾、さらに田崎草雲にも学んだとされる。

日本画を学ぶかたわら、安政3年に洋学研究機関である「蕃書調所」が幕府により設立されると、そこで翻訳の仕事に従事した。このころ、酒席で知り合った西洋人から写真術を伝授され、また、絵画や音楽も学んだという。詳細については不明だが、文久2年ころには江戸下谷久保町に写真館を開いている。

慶応3年、蕃書調所の後身である開成所(現在の東京大学)で絵図調所役となり、写真術、油画の技法を研究し、自ら湿板写真を撮影するとともに、それらをもとにして油絵や墨絵を描いた。これらは、日本における最初の油絵と写真の関係を知るうえで重要な資料となっている。

維新後は、大学東校(東京大学医学部の前身)での教科書を印刷するために活版印刷を研究し、現存最古の金属活字を発明した。多方面に渡り先駆的な活動を行い、写真史、印刷史におおきな足跡を残した霞谷だったが、熱病のため志なかばの43歳で没した。

霞谷の没後、妻の隆(りゅう)は、生まれ故郷の桐生に帰り写真館を開業し、日本最初の女性写真家となった。また、明治2年には、横山松三郎に学んだ片岡如松が、日光で栃木県最初の写真館を開業している。

参考:写真と油絵を融合した「写真油絵」を考案した横山松三郎

島霞谷(1827-1870)しま・かこく
文政10年栃木町生まれ。栃木町の豪商・角屋仁三郎の子。幼名は玉之助。幼いころから画を好み、弘化4年、21歳の時に画家を志して江戸に上り、椿椿山に師事、さらに田崎草雲にも学んだとされる。安政2年一橋家の祐筆だった隆と結婚。安政3年蕃書調所が設立されると、そこで翻訳に従事した。このころ、外国人から写真術を修得し、文久元年下谷久保町で写真館を開業した。慶応3年蕃書調所から改名した開成所の絵図調所役となり、西洋画の研究を行ない、自ら湿板写真を撮影するとともに、それらをもとにして油絵や墨絵を描いた。そこで徳川慶喜とオランダ人ガウトマンを撮影した。同年、討幕軍入城による難を逃れるため、小石川丸山町の銅板・石版画家の岩橋教章宅に非難。戦争がはじまると、再び下谷久保町に家を買い求めて住んだ。明治2年大学東校(東京大学医学部の前身)の書記官となった。そこで教科書を印刷するため、独自の鉛鋳造活字を完成させた。この間、西洋画の模写や写真をもとにした油絵を多く残した。明治3年下谷久保町の自宅に活版製造所を開設。同年活版印刷用鉛活字を完成させ、大学東校から「化学訓蒙・前編一」が刊行された。それから一ヶ月足らずのあと熱病のため43歳で死去した。

栃木(15)-ネット検索で出てこない画家

文献:幕末幻の油絵師 島霞谷-時代の先端を駆け抜けた男の熱き生涯









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