画家外伝

薔薇の花を育てた画家

美術家調査の文献に村上護『落合文士村』を追加しました。
→『落合文士村

昭和初期には、落合界隈に住む新進作家によって文学運動や雑誌の創刊が盛んに行なわれていました。

昭和3年(1928)に創刊された「女人芸術」もそのひとつで、執筆や編集などをすべて女性が行なっており、多くの新進女性作家がかかわっていました。中でも異彩を放っていたのが林芙美子(1903-1951)で、この雑誌に掲載された『放浪記』が大きな反響を呼び、その後『放浪記』シリーズはベストセラーになりました。

幼い頃からの放浪を描いた『放浪記』で一世を風靡した林芙美子は、恋の放浪者でもありました。信州出身の画学生、手塚緑敏(1902-1989)と結婚してからも、その奔放な恋愛は収まることはなく、緑敏の穏やかで献身的な性格なくして成立しないような結婚生活でした。

緑敏の慈愛あふれる行動は、様々なところで見られますが、薔薇の生育にかけた愛情もそのひとつでした。

現在では「林芙美子記念館」になっている自宅裏で、緑敏は薔薇の花を育てていました。その花の出来はとても素晴らしく、隣に住んでいた刑部人(1906-1978)をはじめ、梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)など、数多くの画家たちが好んで緑敏の薔薇を題材にしました。

中でも梅原龍三郎は「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」とまで言い、薔薇の絵のほとんどが緑敏の花を題材にしたものといわれています。あの力強い薔薇の傑作は、緑敏なくして生まれてこなかったのかもしれません。

画家として名を残さなかった緑敏は、薔薇の花を育て、梅原龍三郎や中川一政の薔薇の名作を生み出しました。また、才能豊かな芙美子の活動を献身的に支え、芙美子の死後には、自宅を記念館として開放し、丁寧に保管していた書簡や資料などによって芙美子の仕事を後世に伝えました。

奔放に生き、鮮やかに才能を開花させた林芙美子の薔薇のような人生もまた、緑敏が育てた花のひとつなのかもしれません。




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