越前敦賀に生まれた内海吉堂(1849-1925)は、幼いころに近江に移り、医師・小菅兎峯のもとに身を寄せて漢詩を学んだ。その後京都に出て四条派の塩川文麟に画を学び、京都を中心に活躍した。祖父の内海元孝、父の内海元紀も絵師で、吉堂を加えて「内海三代」と称された。
吉堂が入門した塩川文麟と吉堂の父・元紀は、ともに四条派の岡本豊彦に学んだ同門だったことから吉堂も文麟について四条派を学んだと思われるが、父の元紀も師の文麟も南画の影響を受けていたことから、次第に吉堂も南画に傾倒していったと思われる。
明治10年、28歳の時に中国に渡り、上海に3年、蘇州・杭州に3年滞在した。中国では特定の師を持たず、いろいろな文人墨客と交流して絵を臨画しながら学び、6年間の遊学ののち帰国した。帰国後は南画家として本格的に活動し、明治29年の日本南画協会の結成にも参加した。
明治35年には2度目の中国遊学をおこない、その翌年には実際に見てきた中国の景色をもとにした雄大な山水画を発表するなど、一貫して南画家として制作活動を続けた。
内海吉堂(1849-1925)うつみ・きちどう
嘉永2年敦賀生まれ。内海元紀の長男。通称は鹿六、名は復、字は休郷。別号に海復がある。幼いころから近江の医師・小菅兎峯に漢詩を学び、画は四条派の塩川文麟に師事した。明治10年と明治35年頃に中国に遊学して南画を学んだ。明治29年日本南画協会の結成に参加。京都青年絵画研究会や南画研究会にも携わった。大正12年、77歳で死去した。
福井(16)-画人伝・INDEX
文献:明治の郷土画家 内海吉堂、郷土画家とその関連門流展、館蔵逸品図録(敦賀市立博物館)