今治に生まれ山本雲渓の手ほどきを受けて絵画に目覚めた沖冠岳(1817-1876)は、京都に出て岸駒の門に入り画を学び、その後江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交わり、江戸南画や狩野派を研究するなど様々な画法を身につけて江戸で名をなした。明治3年に浅草寺に描いた「四睡図」は評判を呼び、江戸での人気をさらったという。今治地方の社寺には多くの大絵馬が残っている。門人としては、山下桂岳と愛知の二宮赤峯らがいる。
沖冠岳(1817-1876)
文化14年今治風早町生まれ。字は展親、名は庸。初め冠岳と号したが、一時は冠翠に改号、のちに再び冠岳に戻した。別号に天真堂、蠖堂、玉菴、桂峰、暘谷などがある。元来の姓は中川だったが、中と川(水)の二文字を合成して「沖」姓とし、以後子孫は沖を本姓としている。実家は檜物屋を家業としていたが、父は松山で医者をしていたと伝えられる。冠岳は画道を志し、京都に出て岸駒に学んだのち、江戸に移住し、谷文晁らの江戸南画家と交流したとみられる。また、土佐の河田小龍が文久2年頃に完成させた『吸江図志』に校正で関与している。元治元年に品川旗岡八幡神社に奉納された大絵馬「猿駒止」をはじめ、明治3年には浅草寺の「四睡図」、明治4年に今治大浜八幡神社の「観刀図」、明治6年に讃岐金刀比羅宮の「四季花鳥図」、明治8年に広島厳島神社の「猩々図」など、各地に大絵馬を描いている。晩年には今治に帰郷して、明治8年には今治城の図を描いている。明治9年、60歳で死去した。子の冠嶺は漢学者として名高く、多くの著書を残している。
山下桂岳(1832-不明)
天保3年生まれ。名は清吉。山下伊右衛門の子。明治4年より沖冠岳に師事して画法を学んだ。
二宮赤峯(1852-不明)
嘉永5年加茂郡足助村生まれ。名は景吉。猪飼重造の子。三河国碧海郡刈谷の二宮伊兵衛の養子となった。幼いころから画を好み、海沼文方、沖冠岳に学び、のちに辻嘉潭に師事、さらに佐々布篁石に学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品している。
愛媛(11)-画人伝・INDEX
文献:伊予の画人、愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、愛知画家名鑑