画人伝・青森 南画・文人画家 山水・真景

津軽初の本格的な女性絵師・工藤晴好

工藤晴好「登旭日春日遊鴉」

津軽初の本格的な女性絵師とされる工藤晴好(1867-1924)は、はじめ弘前で三上仙年に学び、その後上京して奥原晴湖の塾に入り、晴湖の養女・晴翠に学んだ。奥原晴湖は、明治初期を代表する女傑といわれた画家で、当時、安田老山とともに南画壇の人気を二分していた。女傑・晴湖の子・晴翠に学んだ晴好もまた雄大な画風を示すようになったとされる。この頃には、夫の日本画家・工藤仙来(1863-1944)と協議離婚が成立しており、東京の秋山宅に寓居していて、ここを拠点に旅に出ては絵を描き、子どもたちを養育していた。そして、大正9年には第2回帝展で初入選を果たした。

元夫の工藤仙来(1863-1944)は、工藤仙乙、三上仙年について日本画を学んだほか、彫刻、漆芸なども学んでおり、さらに陶芸を独学して八雲焼を考案した。美術、彫刻、工芸品に独自の技法を加えて制作していたが、日本画や漆絵に用いる金粉が高価なため、生活は困窮していたという。仙来は、貧しいながらも人情に厚い人で、無欲に徹し、子どもたちを集めてはともに遊び、気の毒な納豆屋を見ると毎日それを買ってやったという。客には、何もないと砂糖を出してもてなしていた。妻の晴好と別れた後は、弘前市内を転々と移り住み、娘の蝶のいた山道町聖公会教会の一室で最期を迎えた。

仙来と晴好の娘・蝶も、絵をよくした。蝶は、母晴好の援助のもと東京女子美術学校の日本画科を卒業し、新潟県柏崎高等女学校につとめ、さらに山形県立酒田高等学校で教鞭をとっており、この頃から晴華と号して日本画を描いていた。作品は弘前市内にいくつか残っている。

工藤晴好(1867-1924)くどう・せいこう
慶応3年深浦町生まれ。本名は相馬タケ。幼いころから画を好み、祖父の実家宮川家を頼って弘前に出て、三上仙年に絵を学び、春年と号した。明治18年に日本画家の工藤仙来と結婚。仙年没後は上京して奥原晴湖の塾に入門、晴湖の養女晴翠に学び、師の一字をもらって晴好と改号した。明治32年第2回全国絵画共進会に出品。大正9年第2回帝展に「積翠」が初入選。大正14年、58歳で死去した。

工藤仙来(1863-1944)くどう・せんらい
文久3年弘前北川端町生まれ。本名は工藤直弥。はじめ父親の雲崖に画法を学び、17歳の時から工藤仙乙、三上仙年について学んだ。また、15歳の時には彫刻師・前田八十之節について彫刻を学び、塗物師・小田桐勇馬について漆工を習い、陶芸を独習して楽焼を研究、独自に八雲焼を考案し、その後東京に出て制作した。昭和5年第1回東奥美術社展日本画の部に「海」を出品した。昭和19年、81歳で死去した。

工藤晴華(不明-1965)くどう・せいか
工藤仙来・晴好の娘。名は蝶。東京女子美術学校の日本画科を卒業。同校卒業後は新潟県柏崎高等学校などで教鞭をとった。昭和40年、78歳で死去した。

青森(21)-画人伝・INDEX

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史、青森県近代日本画のあゆみ展




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