黒田清輝、藤島武二につぐ鹿児島近代洋画第三の先達である和田英作(1874-1959)は、明治29年に東京美術学校に西洋画科が開設された際、藤島と同時に助教授に招かれている。しかし、自身が正規の学校を出ていないことを理由に、翌年には助教授の職を辞して、同校選科4年に編入、5カ月間基礎から学びなおした。そして、卒業制作として、構想画を試みて描いたのが、名作として名高い「渡頭の夕暮」(掲載作品)である。
その後、4年間フランスに留学して明治36年に帰国、33歳の若さで文展の審査員となり、以後も官展の中心人物として制作活動を展開した。また、東京美術学校には50年近くつとめ、昭和7年には校長に就任して後進の指導にあたった。昭和18年には文化勲章を受章するなど、明治、大正、昭和を通じて洋画壇の重鎮として活躍、日本洋画のアカデミズムを形成していった。昭和34年正月、富士を描くために移り住んだ清水市三保の自宅で84歳の生涯を閉じた時、これで「明治の洋画は終わった」といわれた。
和田英作(1874-1959)
明治7年鹿児島県垂水市生まれ。5歳の時に両親とともに上京。明治20年に明治学院に入学、同窓の三宅克己とともに上杉熊松に洋画の初歩を学んだ。その後、第3回内国勧業博覧会で原田直次郎の「騎龍観音」を見て感銘を受け、本格的に洋画を学ぶことを決意、明治24年に明治学院を退学して、上杉の紹介で三宅とともに鹿児島の先輩・曽山幸彦の門に入った。同門には岡田三郎助、中澤弘光、矢崎千代治らがいた。翌年曽山が急逝したため、原田直次郎の鐘美館に移り、日本最初の洋画団体・明治美術会に出品しはじめた。原田が病気のため画塾を閉じると、フランスから帰国した黒田清輝と久米桂一郎が創設した画塾・天真道場に入った。明治29年には23歳の若さで東京美術学校の助教授となり、同年白馬会の結成に参加したが、翌年東京美術学校の助教授を辞して、同校4年に編入、構想画を試みた卒業制作「渡頭の夕暮」を白馬会の第2回展に出品した。その後、フランスに留学し、黒田と同じラファエル・コランに師事、写実を基盤にした清新な外交表現をおこなう新派の代表作家の一人として活躍した。東京美術学校では昭和11年に同校校長を退官するまで、多くの後進を育てた。昭和8年帝室技芸員となり、昭和18年文化勲章を受章した。昭和26年に文化功労者に選出され、2年後に日本芸術院第一部長となった。日本的情趣をもった堅実なリアリズムの作風で知られ、肖像画や、薔薇のある静物画、富士山などの風景画を多く残した。特に富士への思い入れは強く、晩年は静岡県清水市三保に移り住んだ。昭和34年、84歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(和田英作)
鹿児島(35)-画人伝・INDEX
文献:鹿児島の美術、黎明館収蔵品選集Ⅰ、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、 日本近代洋画の巨匠 和田英作展