宮崎出身ではないが、ゆかりの画家に中澤弘光(1874-1964)がいる。中澤は父親が旧佐土原藩士で、東京に生まれた。早くに両親を亡くし、10代の前半から鹿児島の知人を頼って曽山幸彦や堀江正章の画塾に学び、そこで岡田三郎助や和田英作らと出会った。明治29年東京美術学校に入学して黒田清輝に学び、卒業後は白馬会の創立に参加した。明治40年から始まった文展では受賞を重ね、帝展審査員、帝国美術院会員になった。大正に入ると、光風会、日本水彩画会の創立に参加し、48歳の渡欧後には有志とともに白日会を創立した。
洋画家として着実に歩みを進めながらも、装幀や挿絵、旅行記などでも多彩な才能を開花させていった。与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」では早くもアール・ヌーヴォーを意識した口絵を寄せており、鉄幹の妻・与謝野晶子作品の装幀も数多く手がけた。晶子の大作「新訳源氏物語」では、源氏物語に取り組み、中澤独自のデザインを完成させている。与謝野作品のほかにも多くの装幀を担当し、雑誌では「中学世界」「新小説」といった文芸誌を中心に表紙絵や口絵を描き、さらに、新聞の挿絵、絵はがき、ポスターなども手がけた。
また、中澤はその90年の生涯の大半を旅に費やしており、旅の途中に見かけた人々や光景を描いた作品を『日本名勝写生紀行』『畿内見物』などの旅行記に収録、『日本大観』『西国三十三所巡礼画巻』などの木版画集も刊行して人気を博した。
中澤の主要なモチーフのひとつである「舞妓」も旅によって得たもので、明治36年に岡田三郎助とともに京都で描いたのが始まりとされ、その後足しげく京都に通い舞妓や芸妓を描き、のちに土田麦僊と並んで「舞妓の画家」と称されるほどになった。
90歳を迎えた年も旅を続けており、旅の途中で突然体調を崩し、老衰のため息を引き取ったという。
中澤弘光(1874-1964)
明治7年東京生まれ。父親は元日向佐土原藩の藩士。明治20年曽山幸彦の画塾に入り洋画を学び、明治25年の曽山の没後は画塾を引き継いだ堀江正章の大幸館で学び、明治26年第5回明治美術会展に初入選した。明治29年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝に師事、白馬会の創立にも参加した。明治40年東京勧業博覧会で1等賞を受け、同年第1文展で3等賞となり、以後受賞を重ね、文展・帝展の審査員をつとめた。大正元年に白馬会の解散をうけて光風会を創立、大正2年には日本水彩画会の創立に参加した。大正11年にフランス、イギリス、スペインを歴訪し、帰国後の昭和13年、白日会を結成した。昭和5年帝国美術院会員、昭和19年帝室技芸員、昭和32年文化功労者になった。昭和39年、90歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(中澤弘光)
宮崎(25)-画人伝・INDEX
文献:生誕140年 中澤弘光展-知られざる画家の軌跡、都城 美の足跡、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家、日本近代洋画名品展-白馬会創立会員を中心に、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流