
竹内栖鳳「雄風」(二曲一双屏風のうち左隻)京都市美術館蔵
竹内栖鳳(1864-1942)は、京都に生まれ、はじめ土田英林に画の手ほどきを受け、17歳で幸野楳嶺の門に入った。楳嶺のもとで四条派の伝統的な技術と感覚を磨くとともに、雪舟や池大雅ら他派の古画も研究し、内国勧業博覧会や絵画共進会で受賞を重ね、次代を担う作家として若くして画名をあげた。
明治33年の渡欧を経て、西洋美術の消化にもつとめ、機知に富んだ格調高い画風を確立した。その幅広い学習に基づいて打ち出された新機軸は、伝統を破壊するとして保守的な鑑賞者からは「鵺派」と揶揄されることもあったが、新しい時代に相応しい絵画として展覧会出品作の多くが発表当時から高い評価を得て、近代性と個性を持つ新時代の日本画家として指導的立場にたつようになった。
明治40年の文展開設以降は官展審査員を歴任し、官展から独立した画家たちが国画創作協会を創立する際には顧問になるなど、画壇の指導者として重んじられた。大正2年には帝室技芸員となり、昭和12年には西の栖鳳、東の大観と並び称された横山大観とともに第1回文化勲章を受章し、京都画壇を代表する立場を担い続けた。
竹内栖鳳(1864-1942)たけうち・せいほう
元治元年京都生まれ。本名は恒吉。はじめ四条派の土田英林に手ほどきを受け、明治14年幸野楳嶺に入門した。その資質は早くから現れ、半年後には塾の工芸長に抜擢された。内国絵画共進会、新古美術品展などで受賞を重ね、のちに審査員をつとめるようになった。明治33年にはパリ万国博覧会を視察し、帰国後は号を「棲鳳」から「栖鳳」に改め、洋風表現を取り入れた絵画を発表し、新しい日本画の創造を目指した。明治40年文展創設とともに審査員となり、以後京都画壇の指導者として京都市美術工芸学校、京都市立絵画専門学校、私塾竹杖会などを通して後進の指導にあたった。大正2年帝室技芸員に任命され、昭和12年第1回文化勲章を受章した。門下からは上村松園、西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊、小野竹喬ら次世代を担う多くの日本画家が出ている。昭和17年、79歳で死去した。
京都(164)-画人伝・INDEX
文献:京都と近代美術、近代の京都画壇、近代京都日本画史、円山応挙から近代京都画壇、日本画の魅力-美しき人と心、美人画の系譜、京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]、京のくらし、描き継ぐ日本美-円山派の伝統と発展、京都の日本画-京都画壇の俊英たち、日本絵画・20世紀の草創、日本画家人名事典、日本美術全集17、昭和の美術第1巻、昭和の美術第2巻、日展100年、日本美術院百年史1巻上、日本美術院百年史2巻上







