
田能村直入「水墨山水」皇居三の丸尚蔵館蔵
明治13年、日本画を扱う絵画専門学校としては日本初となる京都府画学校が、京都御苑内の准后里御殿を仮校舎として開校された。開校のきっかけとなったのは、東京遷都によって京都画壇が衰退するのを危惧した田能村直入の働きかけにより、幸野楳嶺を中心に望月玉泉、久保田米僊、巨勢小石らが京都府知事に陳情したことで、43名の画家が無償で出仕することを申し出て開校を実現させた。
43名の出仕画家は次の通り。
望月玉泉、森寛斎、国井應文、前川文嶺、森川曽文、中島有章、林耕雲、岡島英昇、竹川友広、原在泉、土佐光武、久保田米僊、田村宗立、舟田涛山、小山三造、中西耕石、村田香谷、重春塘、浅井柳塘、天野方壺、前田荷香、池田雲樵、谷口藹山、小田半渓、松本酔雲、巨勢小石、秦金石、鈴木百年、鈴木松年、幸野楳嶺、今尾景年、山田文厚、野村文挙、村瀬玉田、八木雲渓、伊澤鶴年、桜井百嶺、徳美友僊、加納黄文、神服木仙、羽田月洲、鈴木瑞彦、岸竹堂。
学科は画風によって東西南北の4つの宗に分けられ、東宗は土佐派・円山派・大和絵類、西宗は西洋画、南宗は南画、北宗は雪舟派・狩野派類、と分類され、定員は各20人で、修業年限は3年だった。
初代摂理(校長)は田能村直入がつとめ、教師は無償で出仕した画家たちが選挙会で決めた。開校時には最高位とされる「教員」はおらず、各宗に「副教員」として教師が配置された。最初の副教員は、東宗が望月玉泉、西宗が小山三造、南宗が谷口藹山、北宗が鈴木百年と幸野楳嶺だった。しかし、百年は開校して半月で辞職し、2カ月後には藹山、続いて小山も辞めたため、その後任として、西宗は田村宗立、南宗は池田雲樵(のちに巨勢小石)、北宗は鈴木松年が引き継いだ。
京都府画学校では、新しい取り組みとして西洋式の近代教育が取り入れられ、個別性が強かった従来の画塾と違い、学生は同じ時間にそろって着席し、時間割にあわせて同じ内容の授業が行なわれた。教室ごとに模写や写生を行ない、第一日曜日には席上揮毫が義務付けられるなど、厳しいカリキュラムが組まれた。9年遅れて東京で開校した東京美術学校をフェノロサや岡倉天心が主唱する芸術家の養成所だとすれば、京都府画学校は高度な作画技術を身に付けさせるための修業の場だったといえる。
田能村直入(1814-1907)たのむら・ちょくにゅう
→南画の復興と後進の指導に尽力した田能村直入
→関西南画壇の発展に貢献した田能村直入・村田香谷
京都(158)-画人伝・INDEX
文献:近代京都日本画史、京都と近代美術、京都の日本画近代の揺籃







