富岡永洗(1864-1905)は、埴科郡松代町(現在の長野市松代)に、松代藩士・富岡判六の長男として生まれた。酒井雪谷に学び奇雪と号していた父に、幼いころから絵の手ほどきを受け、漢学は同藩の坂本寛平に学んだ。
13歳で父と死別し、それを機に14歳で大志を抱いて上京。19歳で小林永濯に入門し、永濯の画塾に通いながら陸軍参謀本部で製図を描く仕事についた。この頃から挿絵、口絵の仕事もはじめている。
明治23年、師・永濯の死を機に官職を辞して画業に専念するようになり、画塾も開いた。この頃から「風俗画報」にも挿絵を描きはじめ、その後、都新聞に画家として入社、連載小説の挿絵を手がけて人気を博した。
永洗が描く美人画の艶やかさは歌麿以来と賞賛され、多くの人を魅了し、鏑木清方ら他の画家にも影響を与えた。しかし、永洗自身は美人画家と呼ばれることを好まず、日本画家として歩むことを選び、次第に風俗画や歴史画などの肉筆作品も描くようになっていった。
明治31年、新しい日本画を目指して日本美術院が創設され、同時に第5回日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会が開催された。永洗は、ネコを抱いた美女を描いた「今様美人」を出品して褒状1等を受賞。第7回展では審査員をつとめるなど、日本画家としての活動の幅を広げはじめた矢先の明治38年、肺病のため41歳で没した。
富岡永洗(1864-1905)とみおか・えいせん
元治元年埴科郡松代町(現在の長野市)生まれ。松代藩士・富岡判六の長男。父も奇雪と号して絵を描いた。本名は秀太郎。別号に藻斎がある。絵を父に、漢学を坂本寛平に学んだ。明治11年に上京、一時陸軍参謀本部につとめ、のちに小林永濯に師事した。明治22年に「風俗画報」の装画を描いたのをきっかけに各誌に挿絵を寄せ人気を博した。特に美人画の評判がよかったという。明治31年の日本美術院設立に際して特別賛助員となり、同年第5回日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会で褒状1等、第6回展で銀章、翌年の第7回展で銀牌を受賞、審査員に推された。明治35年の第5回内国勧業博覧会で3等賞を受賞。明治38年、41歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(富岡永洗)
長野(36)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第2巻、北信濃の美術 十六人集、長野県美術大事典