山梨県河口湖町に生まれたポール・ホリウチ(1906-1999)は、15歳の時に両親の移民先である米国に呼び寄せられ渡米した。ワイオミング州のユニオン・パシフィック鉄道に職を得たが、日米大戦中の昭和17年に日系であることを理由に解雇され、以後職を転々とした。その間、趣味として絵を描き続け、一時は看板業を営んでいたが、昭和25年に左腕を折る大怪我をしたことをきっかけに、職業画家の道を進むようになった。
当初、風景画を描いていたが、東洋的な抽象絵画を展開していたマーク・トビーに感化され、チャイナタウンの破れかけのポスターを目にしたことを機に、和紙をカゼイン絵具で染めて貼り付けたコラージュをはじめた。
その独創的な抽象作品は高い評価を受け、昭和30年に全米コンペティションで受賞、昭和33年にはローマ、ニューヨーク美術財団から作品買い上げとなった。さらに、昭和37年にシアトルで開催された博覧会「21世紀ー1962シアトル・ワールド・フェア」では野外の巨大壁画の制作を依頼されるなど、米国北西岸地域でもっとも愛される画家のひとりとなった。
ポール・ホリウチ(1906-1999)
明治39年山梨県南都留郡大石村(現在の河口湖町)生まれ。本名は堀内久正。大正9年両親の移民先である米国ワイオミング州ロックスプリングスに移住。第二次世界大戦後の昭和21年にワシントン州シアトルに居を移し、以後この地で制作を続けた。昭和23年「第34回ノースウエストの美術家展」で佳作賞を受賞。昭和25年腕を骨折し9ヶ月間療養したことをきっかけに職業として美術を志す決意をした。昭和28年米国の市民権を得た。昭和37年「21世紀ー1962シアトル・ワールド・フェア」で開催された「1950年以降の美術」展でベネチアンガラスを用いた壁画を制作。昭和44年オレゴン大学美術館とシアトル美術館で回顧展「ポール・ホリウチ展」を開催した。平成11年、93歳で死去した。
山梨(27)-画人伝・INDEX
文献:ポール・ホリウチ展 シアトルに渡った日本の感性、山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨県立美術館蔵品総目録5 2000-2007