萩藩医の家に生まれた高島北海(1850-1931)は、幼いころから画を好み、雪舟や渡辺崋山の画法を研究した。また、西欧文化の影響を受けてフランス語の勉強を志し、地理学の研究もはじめた。28歳の時に内務省地理局に就職、34歳の時にフランスのナンシー森林学校に留学して林学士の資格を得た。この時に、当地のアール・ヌーボーの旗手のひとりだったエミール・ガレと交流を持ち、お互いに影響を与え合ったと思われる。公職を退いた後は、妻の故郷である長府に戻っていたが、52歳の時に画家として出発することを決意して上京、横山大観、下村観山らとともに文展の審査員をつとめるなど中央画壇で活躍した。北海は、山水画に地質学を、植物画に植物学を導入しての制作を方法論として確立、その上で自らの美意識や精神を盛り込んで描いた。特に山岳画を得意とし、山口県の長門峡や石柱溪の風景を全国に紹介した功労者でもある。門人を受け入れることを拒否したとされるが、資料によると宝迫虹汀(1884-1911)、藤田隆治(1907-1965)は北海に師事している。
高島北海(1850-1931)
嘉永3年萩生まれ。藩医・高島良台の二男。名は得三。父の良治は文雅を好み、詩書画をよくした。父の感化を受け、北海も幼いころから画に興味を持ち、画法を研究した。明治5年工部省鉱山寮に出任して生野鉱山学校に入り、そこで働いていたフランス人コワニエからフランス語、地質学、植物学などを学び、我が国最初の地質図である山口県の地質図を作成した。明治11年、28歳の時に内務省地理局に就職、明治17年、34歳の時に渡欧し、明治21年までフランスに留学、ナンシー森林学校で学んだ。明治21年長府出身の画家・大庭学僊の長女・光子と結婚、翌年再び渡欧し、帰国後は農商務省につとめた。昭和30年に退職したのちは、妻の故郷である長府で生活していたが、明治35年、53歳のときに画家専業を決意して上京、文展の審査員などをつとめた。晩年は石柱渓や青海島・須佐湾など、山口県内の景勝地を紹介することに心血を注いだ。特に阿武郡川上村などにまたがる渓谷を長門峡と名づけて世に広め、その整備と保護に尽力した。著書に『欧州山水奇勝写生要訳』『北海山水百種』などがある。昭和6年、82歳で死去した。
宝迫虹汀(1884-1911)
明治17年生まれ。野村文挙・高島北海に師事。明治39年日本美術協会展に入選し、宮内省御用作品となる。翌年、日本画会展出品作品を東宮殿下に買い上げられ、その後も展覧会に入選したが、明治44年、28歳で死去した。
藤田隆治(1907-1965)
明治40年豊浦郡生まれ。藤田又太郎の長男。一時大工の見習いをしていたが、16歳の時に下関に帰郷していた高島北海に学び、のちに上京して野田九浦に師事した。昭和9年新しい時代を意識した日本画を追求しようと、吉岡堅二、福田豊四郎らと新日本画研究会を結成、昭和13年には新美術人協会の結成に参加した。創造美術展、新制作展にも出品したが、戦後は個展を中心に発表した。昭和40年、57歳で死去した。
山口(12)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、下関の人物