米沢藩の御用絵師をつとめた目賀多家は、幕末にいたるまで代々江戸の鍛冶橋狩野家に入門して画技を習得し、狩野派の画風を継承した。目賀多家は二家あり、本家である幽雲系を北目賀多、分家である雲川系を南目賀多と呼んでいた。
目賀多家の祖・信明は近江の人で、京都で狩野派の絵を学び「洞雲」と号し、上杉定勝の時代に米沢藩に絵師として召し抱えられた。定勝の命により米沢藩領内と城下の絵図を作成したと伝えられている。洞雲の養子・信相が幽雲と号して北目賀多家の祖となり、洞雲の長男・守息が雲川と号して南目賀多家の祖となった。
南目賀多家には「雲川」を襲名したものが、守息、信與、信済と3人おり、そのうち祖である守息は「古雲川」の異称を持ち、その技法は高く評価されている。雲川守息は、承応年中に江戸に上り、狩野探幽に師事した。父・洞雲の逝去時から上杉綱勝に起用され、藩士身分制度のうち法体という高位の列に加えられ、近習組に召し入れとなった。この頃から雲川と号し、綱勝の江戸参勤に随行し、元禄4年には法橋に叙された。
目賀多雲川守息(1641-1714)めかた・うんせん・もりやす
寛永18年生まれ。目賀多洞雲の長男。南目賀多家の祖。名は守息、幼名は吉之丞。承応年中、江戸に上り狩野探幽に師事した。明暦年間に帰藩し、絵師として召し抱えられ、延宝8年雲川と号した。元禄4年法橋に叙せられた。宝永5年隠居。正徳4年、74歳で死去した。
山形(2)-画人伝・INDEX
文献:米沢ゆかりの絵師たち、米沢市史編集資料第10号、郷土日本画の流れ展