郷倉千靱(1892-1975)は、富山県射水郡小杉町(現在の小杉町三ケ白銀町)の呉服商の二男として生まれた。富山県立工芸学校漆工科で中島秋圃の指導を受け、同校卒業後は東京美術学校日本画科に進学し、寺崎広業の教室に学んだ。
この頃関心を示していたのは、同世代の青年画家たちと同様に「白樺」などの雑誌に掲載される後期印象派で、特にセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンに憧れ、工芸家・高村豊周らが主宰する黒耀社に日本画と油絵を出したりしていた。
一方で仏教美術や西域に強い関心を持ち、美術学校で2年上級の中村岳陵とともに図書文庫に通ってはそれらを描き写していた。なかでも、当時稀本だったイギリス政府出版の『アジャンタ壁画の大画集』の模写には特に力を入れて励んだ。
大正4年の同校卒業後は、単身アメリカに渡り、ボストン美術館所蔵の日本画作品の調査と模写に携わった。翌年ニューヨークで作品発表を行ない、これを機にヨーロッパ留学を計画したが、第一次世界大戦にアメリカが参戦したため、留学を断念して帰国した。
帰国後は写生のため居を転々としながら院展に出品し、大正10年第7回春季試作院展で日本美術院賞を受賞し、同年秋の第8回院展で初入選した。この頃の作品は、緻密な写生による雑草をテーマにしたものが多かったため、いつしか「雑草博士」の異名をとるようになった。
大正13年、初入選から3年目の32歳で日本美術院同人に推挙され、その後も院展の中心作家として長く活躍した。また、院展の北陸巡回を発案するなど、郷土の近代日本画界発展のために尽力したが、生前は北陸巡回展は実現せず、千靱没後に長女の郷倉和子(1914-2016)がその志を引き継ぎ、昭和56年から3年おきに富山、石川、福井の順に開催されるようになった。
郷倉千靱(1892-1975)ごうくら・せんじん
明治25年富山県射水郡小杉町(現在の小杉町三ケ白銀町)生まれ。明治43年富山県立工芸学校卒業後、東京美術学校日本画科に進学、大正4年卒業した。大正9年第2回帝展に入選したが、これは本人に無断で後援者が出品したものだという。大正10年第7回春季試作院展で日本美術院賞を受賞。同年第8回院展で初入選。大正13年には堅山南風、富取風堂、小林柯白、酒井三良とともに日本美術院同人に推挙された。その後、帝国美術学校、多摩造形芸術専門学校の教授を歴任。昭和35年日本芸術院賞を受賞。昭和36年正力松太郎読売新聞社主から依頼を受け、京都東本願寺大谷婦人会館の壁画制作に着手し2年後に完成。昭和41年には同じく正力社主の依頼で大阪四天王寺大講堂の壁画制作に着手し3年後に完成。昭和47年日本芸術院会員となった。昭和50年、83歳で死去した。
郷倉和子(1914-2016)ごうくら・かずこ
大正3年東京都台東区谷中生まれ。郷倉千靱の長女。昭和10年女子美術専門学校日本画科を卒業。昭和12年第23回院展で初入選、同年から安田靫彦に師事した。以来院展を舞台に作品を発表。昭和32年第42回院展で日本美術院賞など6年連続で受賞し、昭和35年同人に推挙された。昭和45年第55回院展で文部大臣賞。昭和59年第69回院展で内閣総理大臣賞。平成2年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。平成14年文化功労者となった。平成28年、101歳で死去した。
富山(21)-画人伝・INDEX
文献:郷倉千靱・和子展、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、現代美術の流れ[富山] 、1940年代 富山の美術、越中の美と心