記録的に阿波で最も古い画人は、臨済宗の僧・周崇(1345-1423)である。破墨山水や人物画に優れていたという。また、阿波細川家当主の細川成之(1434-1511)も画人として名を残している。雪舟の門人・等春はその細川成之に扶持されていたという説もある。さらに時代が下ると、禅宗黄檗派の僧・鉄崖(1626-1703)や禅宗曹洞派の僧・天桂伝尊(1648-1735)らが出てくる。藩の御用絵師でありながら蒔絵師として名を馳せた「谷田蒔絵」の谷田忠兵衛も同時代に活躍した画人である。
周崇(1345-1423)しゅうそう
貞和元年・興国6年生まれ。阿波の上八万の人。俗姓は一宮、字は大岳、臥遊道人、徳斎、全愚道人と号した。幼い頃から阿波郡土成の補陀寺に入り黙翁妙誡(1311-1384)について学び、黙翁が京都の臨川寺に移る時に従って剃髪した。学を好み、相州金沢文庫まで行って書を読んだ。諸寺の名匠に学び、京都に帰って春相国寺の住職となり、ついで嵯峨天竜寺に移った。将軍の足利義満は周崇を深く尊信し、金襴の袈裟を贈った。次いで南禅寺に移り、さらに鹿苑院に移って僧録司となったが、晩年また天竜寺に戻った。画は中国の顔輝によって雄大雅趣に富み、破墨山水や人物画に優れていたという。応永30年、79歳で死去した。
細川成之(1434-1511)ほそかわ・なりゆき
永享6年生まれ。細川阿波屋形七代。前名は久之。細川教祐の子で持常の養子となった。京に出て京屋形細川管領家を補佐、応仁の乱には細川勝元の東軍の主力として活躍した武将だったが、晩年剃髪し、道空と号した。詩歌および画に優れていて、『本朝画史』、『万宝全書』、『皇朝名画拾彙』などで画人としてあげられている。『等伯画説』では阿波讃州とある。『本朝画史』では雪舟に学ぶとある。永正8年、78歳で死去した。
等春(不明-不明)とうしゅん
永正年間の人。雪舟の門人で有数の画人とされるが経歴は不明な点が多い。一般的には備前の人で牧童だったが、周文に見出されて京都に出て雪舟についたとされる。『等伯画説』によると奈良の番匠童子であったという。また、阿波の細川成之に扶持されていたともされている。丈六寺の成之象は等春の筆であるという説もある。
鉄崖(1626-1703)てつがい
寛永3年仙台生まれ。禅宗黄檗派の僧。前名は守貞、号は鉄牛。江戸小谷の城主・浅井長政の曾孫とされる。12歳の時に阿波の富田瑞巌寺の慶岳禅師について剃髪、31歳の時に佐古大安寺の住職となった。明暦年間に黄檗木庵の渡来を聞き長崎に行って入門、名を鉄崖と改めた。阿波に戻ってから下八万に唐風の寺竹林院を建てて移った。書画に長じ
「楊柳観音図」が残っている。元禄16年、78歳で死去した。
天桂伝尊(1648-1735)てんけい・でんじゅ
慶安元年生まれ。作州の人。禅宗曹洞派の僧。鈴木姓、別号に滅宗、螺合老人、米虫老などがある。元禄9年、藩主の要請により丈六寺十四代として阿波に来て10年間住んでいた。狩野派の画をよくした。享保20年死去。
谷田忠兵衛(不明-1733)たんだ・ちゅうべえ
元京都・京極若狭守の浪人。名は定茂、本姓は藤原氏。江戸に出て延宝6年3月、蜂須賀綱通に抱えられ藩の御用絵師となった。谷田家の成立書によれば忠兵衛は絵師としてかかえられたが、子孫は代々藩に仕え御納戸役となり、忠兵衛の仕事を継いでいない。忠兵衛は絵師としてよりも蒔絵師として知られている。荒目の砂子を雲のようにぼかして表現した独特の色漆絵は、現在でも「谷田蒔絵」と呼ばれ珍重されているが、その技法は伝わっていない。享保18年死去。
徳島(1)-画人伝・INDEX
文献:阿波画人名鑑