近江商人のなかには、本格的に画家として活動したものもおり、島崎雲圃(1730-1805)もそのひとりである。雲圃の先々代にあたる初代利兵衛は、近江商人の家に生まれ、商域を関東にも広げるため、元禄16年に下野国芳賀郡茂木町に酒造業を出店した。当主は代々「利兵衛」と名乗り、雲圃はその三代目である。
雲圃は、近江商人として商家の経営にあたるかたわら、画をよくし、茂木と近江日野の往来のなかで日野の高田敬輔に画を学び、下野に鮎画を中心とした画風を伝えた。師の高田敬輔は、京狩野の流れを汲む画人で、その画風は雲圃を通じて、その門人である小泉斐や伸山操ら下野の画人に引き継がれていった。
雲圃の業績にひとつに、没骨法を人物画に応用したことがある。没骨法とは、輪郭線を用いず、水墨や彩色によって描く画法で、17世紀頃に中国で考案され、のちに日本に伝えられた。主に花鳥画などを描く技法として発達・継承されたが、雲圃はこれを人物画に応用できるよう、郷里の氏神綿向神社に祈願しつつ努力を重ねたという。このことは、雲圃の没後に友人の立原翠軒によって建立された「雲圃島崎翁墓碣銘並序」にも刻まれている。
島崎雲圃(1731-1805)しまざき・うんぽ
享保16年近江国日野生まれ。近江商人であり画家。島崎家は初代利兵衛が下野茂木に出店し酒造業を興したが、その三代目。名は輔吉、字は黄裳、蝦蟇窟と号し、泉司と称した。高田敬輔に師事し、鮎図などを得意とした。刀剣を好み、刀の真偽の鑑定をよくしたという。文化2年、75歳で死去した。
栃木(8)-画人伝・INDEX
文献:小泉斐と高田敬輔 江戸絵画にみる画人たちのネットワーク、栃木県歴史人物事典