織田瑟々(1779-1832)は、近江国神崎郡御園村川合寺(現在の東近江市川合寺)に、津田貞秀の長女として生まれた。津田家の先祖は織田信長の九男信貞にはじまり、豊臣秀吉の時に神崎郡内の御園荘に領地をもらい、館を川合寺に定めた。関ケ原の戦い後は代々江戸暮らしだったが、瑟々の曽祖父の代で川合寺に戻り、津田姓を名乗った。
父・貞秀に男子がなかったため、瑟々は婿を迎えて京都に移り住んだ。京都では若いころから好んでいた画を本格的に学ぶため、桜画を専門に描いた三熊派の画人・三熊花顛の妹露香の門に入り、瑟々と号し、姓も津田から先祖の織田に戻し、三熊派の伝統を守って桜の花を描き続けた。
参考記事:桜画を専門に描いた三熊派の祖・三熊花顛
夫の岐山も風雅に遊ぶ風流人で、縫殿助の官職をもち、儒者で南画家の皆川淇園らと親しく、寛政8年と9年の2度、淇園が主導する東山春秋書画展観に夫婦そろって出品した記録が残っている。しかし岐山は2度目の出品の年に没し、瑟々は次の婿として彦根藩士石居氏の三男信章を迎えて一男貞逸をもうけたが、信章も瑟々が35歳の時に病死してしまう。
その後、瑟々の名は京都の画人名録から姿を消すが、仏門に入って郷里に戻り、子の貞逸の教育に徹するとともに、充実した作画活動を行なったとみられる。
織田瑟々(1779-1832)おだ・しつしつ
安永8年近江国神崎郡御園村川合寺(現在の東近江市川合寺)生まれ。津田貞秀の長女。名は政江。三熊派の祖である三熊花顛の妹・三熊露香に師事し、桜を題材にした絵画を描いた。天保3年、54歳で死去した。
滋賀(13)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち