町狩野とは、幕府や藩には所属せずに市井に門をはった狩野派のことで、尾張の吉川家は御用絵師・清野養山の門から吉川知信が出て以来、幕末まで町狩野として家系を続けた。また、木挽町狩野養川院惟信の門人である岩井正斎、松野梅山、その門人の下村丹山や近藤芙山らが町狩野として名を残した。ほかには、文化人と交流し画賛もよくした高田良斎、中天和尚、内藤東甫ら多彩な画人たちが活躍した。
吉川知信(1686-1771)よしかわ・とものぶ
貞享4年生まれ。通称は小右衛門、別号に孤月堂がある。清野養山に狩野派を学び、一家を興した。特に仏画、人物画を得意とした。松平君山が『張州府志』編纂のときに随行して、草木、禽獣、魚介などの写生にあたった。真宗大谷派名古屋別院にがある。明和8年死去。吉川家は町狩野の家として幕末まで続き、尾張藩の画用など公的な画事にも携わった。
吉川英信(1737-1801)よしかわ・ひでのぶ
吉川知信の長男。元文2年生まれ。通称は小右衛門、はじめ養悦と号し、のちに幸翁に改めた。文化8年死去。
吉川庄助(不明-不明)よしかわ・しょうすけ
吉川知信の門人で、のちに養子に入った。
吉川義信[一渓](1763-1837)よしかわ・よしのぶ[いっけい]
吉川英信の長男。宝暦13年生まれ。通称は仙太郎のちに小右衛門、別号に養元、自寛斎、一渓がある。父に狩野派の画法を学び、特に仏画を得意とした。晩年には名古屋城本丸御殿障壁画の筆者鑑定を藩から命じられた。瀬戸市定光寺にがある。天保8年死去。
吉川弘信[君渓](1800-1884)よしかわ・ひろのぶ[くんけい]
吉川義信の長男。寛政12年生まれ。通称は春助、はじめ君溪と号し、のちに益翁と改めた。東区西蓮寺にがある。明治17年死去。
岩井正斎(不明-1801)いわい・せいさい
木挽町狩野九代養川院惟信の門人。養月と号した。同朋衆として尾張藩に仕えた。松平鳳山家の御用絵師となり、松平家邸に襖絵を描いた。名古屋城天守閣から見た四方の景色を写生した絵巻を著した。享和2年死去。
松野梅山(1783-1857)まつの・ばいざん
天明2年生まれ。名は栄興、字は純恵、別号に雪香亭、无我道人がある。名古屋の吉見屋某の子。はじめ岩井正斎に学び、のちに養川院惟信にも学んだ。壮年にして仏画を修め、薙髪して真宗の岐阜浄導寺に入った。上洛して画を献じて法眼に叙せられた。とくに富士を得意とした。大風で傷ついた城内御殿広間前の舞台が再建された時、藩の命により古図にのっとって鏡板を描いた。安政4年死去。
下村丹山(1804-1866)しもむら・たんざん
文化元年知多郡大高生まれ。名は実頴、通称は鉄蔵。別号に湛山、藍衣斎がある。松野梅山の門人で、特に人物画、仏画を得意とした。慶応元年に法橋となった。大高春江院にが残っている。慶応3年死去。
近藤芙山(1806-1856)こんどう・ふざん→参考:尾張11
文化2年熱田区伝馬町生まれ。通称は忠三郎。別号に煙霞斎、雪翁がある。17歳の時に渡辺清の門に入り土佐派を学び、のちに松野梅山について狩野派の画法を修めた。仏画を得意とし、弘化2年宗門の命によって勅修御伝を揮毫し京都御所に納めた。安政3年死去。
高田良斎[太郎庵](1684-1763)たかだ・りょうさい[たろうあん]
天和3年生まれ。名は栄治、通称は藪下屋太兵衛、別号に下黄狐、黄朴狐、源良、具三、信暁がある。叢結庵、由成堂とも称した。家は代々藪下屋と称する飼馬を業とした。清野養山の門人で、江戸木挽町狩野二代常信にも学び、尾張藩市買御殿の襖絵、紫宸殿聖賢の障子を描いた。剃髪し、そののちに唯念居子に改めた。茶人太郎庵として知られる。宝暦13年死去。
中天和尚(不明-不明)ちゅうてんおしょう
名古屋巾下の雲門寺の住職。清野養山の門人で、画竜を得意とし、常に雲竜を描いた。当時は中天の画竜を買って火災除けとする人が多かったという。雲門寺は享保9年に火災にあい廃絶した。豊橋の東観音寺にがある。
岩間治信(不明-不明)いわま・はるのぶ
通称は吉右衛門。清野養山の門人で、中区門前町に住み、町狩野として仏画などの制作にあたった。豊橋の東観音寺にがある。東観音寺は平安時代から隆盛をしられた三河の名刹で、他にも狩野派による障壁画が残っている。
尾張(3)-画人伝・INDEX