
田結荘千里「青緑山水図」
田結荘千里(1816-1896)は、但馬出身の儒医・但馬天民の子として大坂堂島に生まれた。画を金子雪操に学び、長崎で池部如泉に砲術を学び、自ら蘭学を修めるなど諸技に通じ、緒方洪庵とも交流があったという。壮年になって大塩平八郎の門人となり、天保8年の大塩の乱に追随し、1年間投獄の身となった。釈放後、篠崎小竹や広瀬旭荘、藤沢東畡ら文人墨客と交流を持った。
大坂では砲術家として名を馳せたが、幕末には海運業に進出するなど実業家としての側面もあった。明治維新後は、中国、北海道を巡遊し、その後は天王寺の自宅で画業に専念し、門人の教育に励んだという。
田結荘千里(1815-1896)た(ゆ)いのしょう・せんり
文化12年大坂堂島生まれ。父は但馬氏。名は馝、駜または邦香。字は必香または邦光、俗称は斎治。幼名は不動次郎。出自但馬の名勝に因んで玄武洞とも号した。画を金子雪操、砲術を池部如泉に学び、自らも蘭学を修めた。壮年になって大塩平八郎に学び、天保8年の大塩の乱に連座して投獄された。釈放後は篠崎小竹、広瀬旭荘らを歴訪した。明治維新後は中国、北海道を巡遊した。著書に『孫子心解』『海防策』『散兵神機府』などがある。旧蔵書などの資料類は大阪府立中之島図書館に収蔵されている。明治29年、82歳で死去した。
大阪(80)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪の日本画、近世の大阪画人