福原五岳(1730-1799)は、備後国尾道(現在の広島県尾道市)に生まれ、京都に出て池大雅に学び、大雅随一の弟子と評された。その後大坂に移り大雅風を広め、大坂の南画壇隆昌の先鞭をつけた。人物画に秀で、当時彭城百川以来の人物画の名手であると謳われた。
風流洒脱で詩文及び酒を好み、頼春水の著書『師友志』『浪花見聞雑語』などに酒好きだった逸話が載っている。そのひとつとして、京都にいた頃、大雅が五岳とともに高野山に山水画を描くため仕度をしていたところ、頼春水が訪れてたちまち五岳と酒杯を傾けはじめ、そのまま行かずじまいになってしまったという逸話が残っている。
交流範囲は広く、混沌詩社や懐徳堂の人々をはじめ、龍草廬、奥田尚斎、頼春水らの儒者とも交わった。掲載の「洞爺湖図」の上部には、三宅春楼、細合半斎、中井竹山、頼春水、片山北海、葛子琴、篠崎三島ら大坂の文人14名が賛を寄せており、多方面の交友関係がうかがえる。
また、画技の指導に優れていたと評され、林閬苑、岡熊嶽、浜田杏堂、鼎春嶽、黒田綾山ら優れた門人を多く輩出し、実子の福原三洞(1777-1797)と福原東岳(不明-不明)も詳細は不明だが、早くから画人として活躍した。
福原五岳(1730-1799)ふくはら・ごがく
→福原五岳と尾道の画人
福原三洞(1777-1797)
安永6年生まれ。大坂の人。福原五岳の第四子(一説に二男)。名は天紀、字は希文、俗称は数之介。号は三洞。温厚寡黙な性格で、15歳から画を学び家法を研究した。画を学ぶには書を読む必要があると考え、多くの書籍の記覧につとめた。寛政2年刊『郷友・寛二』に早くも画人として登場するが、寛政9年、21歳で死去した。
福原東岳(不明-不明)
名は棄之、字は挙旃、俗称は捨五郎、棄五郎。福原五岳の第五子で、生後近隣の片山北海宅に捨てられ、捨五郎と命名されたという。寛政2年刊『郷友・寛二』に画家として登場し、文化年間の『画人組』『見立組』にはいずれも頭取として扱われており、この頃すでに画名が高かったと思われる。少なくとも弘化2年までの在世が知られ、父同様かなりの長命を保ったものと思われる。
大阪(23)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、大阪ゆかりの日本画家、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画