画人伝・大阪 風景画

伊藤若冲、木村蒹葭堂の最初の師として知られ、京都・大坂の画家たちに大きな影響を与えた大岡春卜

大岡春卜「浪花及び澱川沿岸名勝図巻」(部分)

大岡春卜「浪花及び澱川沿岸名勝図巻」(部分)

橘守国と前後して出た大岡春卜(1680-1763)も、享保5年出版の『画本手鑑』をはじめ、多くの絵本類を手掛けるとともに、広域にわたって作品を残している。

特定の師をもたなかったとされるが、『画本手鑑』の竹田都専の跋文には「狩野氏の門に入る」と記されており、はじめ狩野派の画法を学び、その後自由に研鑽を積んだと思われる。正徳年間(1711-1716)、30歳代で嵯峨法主(大覚寺性応門主)の知遇を得て、後年、大覚寺寛深門主の家来に召し抱えられた。

大坂だけでなく京都での活動も多く、妙心寺塔頭の霊雲院や衡梅院の方丈障壁画、清水寺の絵馬、洛東遺芳館の衝立などが残っている。さらに、高野山清浄心院の襖絵、播州室津神社の衝立なども手掛けており、その活動は広域に及んだ。

絵本類も精力的に制作し、画手本の版本を次々と出版して京都・大坂の画家たちに大きな影響を与えた。一方で、和歌、音曲、茶、香道など諸芸に通じ、交友も広かったと思われる。

多くの門人を育て、伊藤若冲、木村蒹葭堂の最初の師としても知られる。『浪速奇談』はその風貌と弟子の教育法について「小男で髪は末を切り後に撫で付けていた」とし、「自製の白描風下絵を百種模写させた後、古人の粉本を写させた」と記している。

大岡春卜(1680-1763)おおおか・しゅんぼく
延宝8年生まれ。大坂の人。はじめ高平姓を名乗っていた。名は愛董、字は春卜、俗称は半七。号は雀叱、一翁、雪静斎、式部卿などがある。はじめ狩野派に入門したらしいが、その後は定まった師を持たなかったと思われる。30歳代で嵯峨法主(大覚寺性応門主)の知遇を得て、京都の妙心寺などでも障壁画を描いた。享保5年以前に法橋、享保20年に法眼となり、元文4年に大覚寺寛深門主の家来となり愛顧を受けた。享保5年『画本手鑑』を刊行。宝暦13年、84歳で死去した。

大阪(02)-画人伝・INDEX

文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪名家著述目録、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画




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