小橋川朝安(向元瑚)は首里に生まれ、幼いころから屋慶名政賀に師事して絵画を学び、尚穆王時代の1767年に19歳で絵師として採用されて王府に勤務した。1797年以後に使者として中国に渡っており、その時に中国の絵画も学んだものと思われる。93歳で没するまで、人物、花鳥、山水など幅広い作品を描いた。官僚としても優秀で、尚温王時代には、画家で初めて親方の位に昇進し、紫冠に叙された。作品は戦前まで多く残されていたが、沖縄戦によって焼失した。
朝安の出世作というべきものに尚穆王の御後絵(掲載作品)があり、その後も多くの王の御後絵を手がけている。「御後絵(ウグイ)」とは、国王の死後に描かれる肖像画のことで、中国の伝統的な様式を踏襲しながら、それぞれの王の個性を表現している。当時の琉球と中国は冊封関係にあったため、中国皇帝から贈られた衣装を身に着け、冊封の儀礼を模した集合写真のような形状をしているのが特徴である。御後絵の制作は、当時の絵師たちにとって最も重要な役目だった。
御後絵の実物は沖縄戦において行方知れずになっており、現在確認できるものは、染織家で沖縄文化研究者の鎌倉芳太郎が大正時代に撮影したモノクロ写真のみである。
小橋川朝安(1748-1841)
1748(寛延元)年首里生まれ。唐名は向元瑚。童名は松金。はじめ朝英を名乗ったが朝安に改めた。恩河里之子親雲上朝教の長男。里之子筋目の士族の家系に生まれたが、祖父の勤務上の過失で失脚してから一家は貧困に陥った。朝安は幼いころから屋慶名政賀に師事して絵画を学び、尚穆王時代の1767年に19歳で絵師として採用され王府に勤務した。絵師として7年経った後、絵と関係のない職種である納殿筆者になった。その後、三司官馬氏与那原親方良矩の仮与力となり、与那原家の会計係を5年間勤務したあと、御物奉行仮筆者に栄転した。1795年に御物奉行筆者のかたわら、円覚寺において先王尚穆および尚哲の肖像画を描いた。1797年には進貢兼皇帝即位慶賀使として、北京大筆者という公務で中国に渡った。その道中での仕事ぶりが認められ、3度の中国旅行の機会を得た。その後、絵師としては顧問格として活躍し、歴代画家としては最高位である紫官に叙せられ、小橋川親方と呼ばれた。1841年、93歳で死去した。
沖縄(6)-画人伝・INDEX
文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術、沖縄の芸術家