岡山の岸派としては、玉島に寄寓していた岸派の画人・関石城に学んだ矢部楳山(1849-1911)と小野竹下(1845-1897)がいる。楳山はさらに京都に出て岸連山に師事しており、同門に林玉峰(1830-1886)がいる。また、井上端木、野崎鶴巣は岸駒に学んでいる。
矢部楳山(1849-1911)
嘉永2年浅口郡連島生まれ。通称は卓治、別号に亀岳、青樹などがある。7歳のときから玉島に寄寓中の関石城について岸派を学び、のちに京都に出て岸連山に師事し技を磨いた。山水、花鳥、人物を描いたが、特に人物を得意とした。第3回内国勧業博覧会で一等褒状を受けるなど、中央の展覧会でたびたび受賞した。総社市三須の国分寺の客殿に「花合戦」という楊貴妃を主題にした極彩色の襖絵が残っている。明治44年、61歳で死去した。養子の楳堂も父に学んで岸派をよくした。
小野竹下(1845-1897)
弘化2年生まれ。浅口郡玉島町上成の人。通称は九一郎。亀岡藩下の豪族・小野信太の子。漢書を森田節斎に学び、画を関石城に学び、のちに白神澹庵にも学んだ。明治3年伊賀国上野において53歳で死去した。
林玉峰(1830-1886)
天保元年都窪郡菅生村生まれ。名は貞幹、通称は梅吉、のちに覚治郎と改めた。はじめ梅園と号していたが、のちに應山玉峰と号した。井上屏石、岸連山に師事し、一家をなした。篆刻も得意とした。明治19年、57歳で死去した。
井上端木(1768頃-1840)
明和5年頃生まれ。備中倉敷の人。名は廣輔。別号に慶雲斎がある。和歌を小沢蘆庵に学び、のちに京都に出て先斗町に住み、岸駒に師事し、鶴を得意とした。常に堂上に出入りして法橋に叙せられた。天保11年、73歳で死去した。
野崎鶴巣(不明-1872)
元徳島藩士。画を好み、弟に家を譲って遊歴したのち、岸駒に師事した。一時備後東城に住み、ついで上房郡高梁に住んだ。明治5年死去した。
野崎愛山(不明-不明)
幕末から明治前期頃の人。上房郡高梁に住んでいた。野崎鶴巣の子。画をもって松山藩に仕えた。
勝山西圃(1866頃-1915)
慶応2年頃生まれ。岡山野田屋町の人。名は安執、安亨の子。矢部楳山に師事した。小学校に勤務いていた。大正4年、50歳で死去した。
岡山(17)-画人伝・INDEX
文献:岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典