画人伝・岡山 南画・文人画家 山水・真景

浦上春琴と岡山の門人

浦上春琴「僊山清暁図」

父・浦上玉堂が、巧みに描こうとせず、心の動きのままに筆をとり、自らが専門画家であることを恥じて、それを拒否していたのとは対照的に、子の浦上春琴(1779-1846)は、如才のない文人らしからぬ文人だったといえる。父・玉堂がいっさい手を染めなかった花鳥画も、春琴は写実的で技巧的に描き、花鳥画の名手と謳われた。山水においても常識の線を崩さず、気品のある作品を手がけた。そんな春琴を玉堂は「行燈画カキ」と呼び、その画を「針箱画」と酷評していたという。しかし、春琴は玉堂を凌ぐ人気作家となり、頼山陽ら多くの著名文化人と交わり、京都南画壇の成功者のひとりとなった。その人柄は、田能村竹田が「その世に処するや境に随って能く転ず」と記しているように、状況に応じて巧みに物事を処理するタイプだったようである。門人も非常に多く、岡山出身者としては、大森黄谷、鳥越烟村、成田半烟、吉川翠烟、松田翠崖、伊藤花竹、亀山松濤、浦上春圃、青木石圃、片山春潮らがいる。

大森黄谷(1786-1852)
天明6年生まれ。名は武右衛門、字は伯章、通称は盧之助、隠居の後に蔭次郎、蔭輔と称した。別号に岱斐、宣溪翁がある。画を浦上春琴に学び、特に亀を得意とした。書は武元登々庵に学んだ。父の死後は家を弟に譲り、諸国を歴遊し、晩年は三石驛に隠棲した。嘉永5年、67歳で死去した。

鳥越烟村(不明-不明)
備前岡山藩士、名は霖のちに澹、字は澹卿、通称は仙蔵。別号に梅圃がある。風流の人で詩文を好み、画は浦上春琴に師事した。早くに隠居し、氏を梅と改め、中国・九州地方を歩いた。

成田半烟(1795頃-1870)
寛政7年頃生まれ。名は元譲、通称は馬之助。岡山藩士・成田充美の子で、母は浦上玉堂の娘。武術に優れていたが、中年になって叔父の浦上春琴に画を学んだ。明治3年、76歳で死去した。

吉川翠烟(不明-不明)
名は渡。岡山藩士。浦上春琴に学び画をよくした。明治14、5年頃死去した。

松田翠崖(1804頃-1862)
享和4年頃生まれ。名は信義、岡山の人。生坂藩主・池田氏に仕えた。書画を好み、浦上春琴に師事して山水、花鳥をよくした。鳥越烟村と共に春琴門下の二駿足と称された。文久2年、59歳で死去した。

伊藤花竹(1805-1881)
文化2年生まれ。備前岡山藩士で御側御用人、藩校副督学などをつとめた儒者。名は巌二、はじめ采節学人と号し、のちに花竹と改めた。浦上春琴に学び、山水や墨梅をよくした。明治14年、77歳で死去した。

亀山松濤(1818頃-1841)
文化15年頃生まれ。名は總綱、通称は峯次郎。備中八田部の亀山石屏の二男。浦上春琴に師事して画業に精進したが、天保12年、24歳で死去した。

浦上春圃(1820頃-1849)
文政3年頃生まれ。名は駿。浦上春琴の養子。父に学んで画を修めたが、嘉永2年、30歳で死去した。

青木石圃(1830頃-1860)
文政13年頃生まれ。名は條、通称は百五郎。亀山石屏の五男。倉敷の植田武右衛門の養子となり、吉備郡岡田の三宅氏を継ぎ、青木と改めた。漢学を山田方谷に、画を浦上春琴に学んだ。万延元年、31歳で死去した。

片山春潮(1839-1896)
天保10年岡山七軒町生まれ。名は恭元、字は子享、通称は七太郎。別号に帯雨草堂、三操山房などがある。岡山藩士・片山恭明の長男。画を浦上春琴、成田半烟に学んで、花鳥をよくした。茶、華、彫刻にもすぐれていた。明治29年、58歳で死去した。

岡山(7)画人伝・INDEX

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典




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