川上涼花(1887-1921)は、東京の麹町区商工中学校を卒業後、画家を志して太平洋画会研究所に学び、明治45年5月、同研究所の川村信雄ら新傾向の絵画に共鳴する同志とともに、東京美術学校内のアブサント会の萬鉄五郎、平井為成、そして白馬会洋画研究所にいた岸田劉生を加えて「雑草会」を結成した。
さらに同年9月、斎藤与里、岸田劉生、清宮彬らが発起人となった「ヒュウザン会」(のちにフュウザンと表記)の結成に参加、同年10月に開催された第1回展では、個性を競った作品のなかでも、川上の異色ぶりは最も注目されたと伝わっており、日本でいち早くフォーブ的な技法に独特な味わいを示した個性派のひとりとされている。
しかし、翌年3月に開催した第2回展後、斎藤与里と岸田劉生の意見が食い違うようになり、フュウザン会は約半年の活動で解散することになる。
この頃、川上は「二六新報」の挿絵画家を兼ねた美術記者となり、同紙上で挿絵や時事漫画、美術批評記事などを担当していた。しかし、同紙は、政治批判によりたびたび発禁処分を受け、大正3年には「二六新聞」、ついで「世界新聞」と改称しながら発行を続けていたが、次第に凋落していき、川上の記者としての活動も同紙の衰退とともに少なくなっていったとみられる。
大正3年頃からは木炭による風景画を主に手がけるようになり、東中野の鉄道線路沿いの丘の上に画室を構え、清貧のなか、友人からは「中野の仙人」と称されながら、当時まだ豊かな自然が残っていた中野周辺をモチーフに木炭画を描いた。
大正5年には、旧雑草会同人を主体に斎藤与里、萬鉄五郎、川村信雄らと「日本美術家協会」を結成、翌年の第2回展では30点もの木炭画を出品した。この頃から、しばらく描き続けていた木炭画を中断して、水墨による日本画を制作するようになるが、大正10年、結核のため34歳で死去した。
川上涼花(1887-1921)かわかみ・りょうか
明治20年生まれ。本名は乙次郎。明治38年麹町商工中学校卒業後、画家を志して太平洋画会研究所に学んだ。明治45年、川村信雄、山田音次郎、松村巽、三並花らとともに雑草会展を開催。同年、萬鉄五郎、岸田劉生らとともにフュウザン会の結成に参加した。大正5年旧雑草会同人を主体に斎藤与里を中心に日本美術家協会を結成し会員となった。この間、美術記者もつとめた。大正10年、34歳で死去した。
新潟(31)-画人伝・INDEX
文献:川上涼花という画家がいた、新潟の絵画100年展、越佐の画人