新潟県佐渡の農家に生まれた土田麦僊(1887-1936)は、16歳で京都に上り、はじめ鈴木松年・松僊に学び、ついで竹内栖鳳に師事した。栖鳳のもとでは、四条派の伝統的写生に西洋絵画の写実性を加味した栖鳳の画風を学び、新古美術品展や文展で受賞するなど、20歳頃には京都画壇の新進画家として注目されるようになった。
明治42年、22歳の時に京都市立絵画専門学校が開校され、麦僊は小野竹喬とともに同校別科に入学した。本科には野長瀬晩花ら7名が、本科2年には入江波光、村上華岳、榊原紫峰らが編入学した。在学中は日本画、洋画の枠を越えた研究団体「黒猫会」などの設立に加わり、日本画における新たな絵画表現の可能性を模索した。
さらに雑誌「白樺」などで紹介されたゴーギャンやルノワールに傾倒する一方で、桃山時代の障壁画や近世初期風俗画、中国宋代の花鳥画、イタリア中世の宗教画など様々な美術を研究して吸収し、「島の女」「海女」「散華」「大原女」など新しい描法も取り入れた意欲的な作品を文展に発表した。
しかし、次第に旧弊とした文展の審査に失望するようになり、大正7年、31歳の時に京都市立絵画専門学校で同窓だった小野竹喬、榊原紫峰、野長瀬晩花、村上華岳とともに国画創作協会を結成、第1回展は東京と京都で開催し「湯女」(掲載作品)を出品した。以後はここを拠点に自由な立場で活発な創作活動を行ない、当時の日本画壇に大きな刺激を与えた。
大正10年から1年半にわたって欧州に遊学、帰国後初の国画創作協会展には「舞妓林泉図」を発表した。同作は、麦僊が理想とした「写実の美と装飾の美が渾然融和した作品」として、それ以前に描かれた舞妓像とは一線を画す作品として麦僊の代表作のひとつとなった。
昭和3年、国画創作協会日本画部は経済的な行き詰まりなどから解散。麦僊は帝展に復帰し、その後も朝鮮に取材旅行に行くなど旺盛な創作活動を続け、帝展ではしばしば審査員をつとめ、昭和9年には帝国美術院会員に推挙されたが、昭和11年、制作中に吐血し、49歳で死去した。
土田麦僊(1887-1936)つちだ・ばくせん
明治20年新潟県佐渡郡新穂村(現在の佐渡市)生まれ。名は金二。明治36年京都に上り智積院に入るが、画を学ぶため出奔し鈴木松年に入門。ついで明治37年に竹内栖鳳に師事した。明治41年第2回文展で3等賞を受賞。明治42年京都市立絵画専門学校に入学。在学中に田中喜作、黒田重太郎、小野竹喬らと黒猫会(翌年仮面会と改称)を結成した。明治44年同校卒業。同年第5回文展で褒状、翌年の第6回文展でも褒状を受けた。大正4年の第9回文展では3等賞を受けたが、審査への不満があり、大正7年村上華岳、小野竹喬らと国画創作協会を結成した。大正10年から12年にかけて欧州を遊学。昭和3年国画創作協会日本画部の解散とともに帝展に復帰、審査員もつとめた。昭和9年帝国美術院会員となった。昭和11年、49歳で死去した。
新潟(26)-画人伝・INDEX
文献:佐渡の美術、越佐の画人、新潟の美術、新潟の絵画100年展、新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版