画人伝・長崎 中国画家 中国故事

長崎漢画の祖・逸然性融

逸然性融「白衣大士観瀑図」
長崎歴史文化博物館蔵

隠元隆琦によって長崎に伝えられた黄檗宗には、黄檗肖像法によって肖像画を描いた喜多氏ら肖像画工のほか、興福寺の僧・逸然性融(1601-1668)を開祖とする漢画(唐絵)のグループがあった。漢画とは、江戸時代に中国から伝わった明清画風の影響を受けて成立した絵画様式を指すもので、そのひとつの中心として黄檗宗が機能していた。逸然は中国の浙江省抗州府の人で、貿易商として長崎に渡来し、黙子如定のもとで出家、興福寺の3代住持をつとめるかたわら、画家としても活躍した。画技は独学で習得したものと思われ、そのほとんどが仏画や高徳画だったが、背景には好んで山水などを描いている。逸然の門人には、のちに長崎を代表する画人となる渡辺秀石と河村若芝がおり、漢画は、渡辺家や石崎家といった唐絵目利の画家たちに受け継がれ、長崎画壇の主流となっていった。

逸然性融(1601-1668)いつねん・しょうゆう
万暦29年明国浙江省生まれ。李氏出身。名は性融、字は逸然。号に浪雲庵主、烟霞比丘、煙霞道人がある。正保元年明末の反乱期に長崎に渡来し、翌2年から明暦元年まで興福寺3代住持をつとめた。承応3年には中国から隠元禅師を招き、日本黄檗宗発展に貢献した。また、画僧として北宗画系統の新画風を伝え、長崎漢画の祖となった。門人に、渡辺秀石、河村若芝がいる。代表作に、巌上観音菩薩像、並賢・文珠菩薩像双幅、芦葉達磨図、布袋図などがある。寛文8年、68歳で死去した。

隠元隆琦(1592-1673)いんげん・りゅうき

万暦20年中国福建省生まれ。俗姓は林。29歳の時に中国の黄檗山萬福寺で出家し、その後各地を遍歴、臨済宗の高僧・密雲円悟のもとで禅の修業をかさねたのち、密雲に随従して黄檗山に帰り、住持費隠通容から法を継ぎ、黄檗山の復興発展に尽くした。隠元の名声は日本にも及び、長崎興福寺の住持・逸然性融が再三にわたって来日を招聘していたため、承応3年多数の弟子や諸種の職人を伴い来日した。はじめ3年で帰国する予定だったが、臨済宗妙心寺派の龍溪性潜、竺印祖門らの働きかけなどで帰国を断念、寛文元年山城国宇治郡に中国と同じ名前の黄檗山萬福寺を開創し、日本黄檗宗の開祖となった。寛文4年には住持を木庵に譲り、山内の松隠堂に退隠、寛文13年、82歳で死去した。

長崎(3)-画人伝・INDEX

文献:長崎の肖像 長崎派の美術家列伝、隠元禅師と黄檗宗の絵画展、長崎の美術-300年展、長崎絵画全史




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