松本地方の近代日本画の発展には、県外から来た2人の勤皇画人も重要な役割を果たした。ひとりは、2度にわたり京都から訪れた復古大和絵の浮田一蕙で、もうひとりは、伯耆国(鳥取県)出身の医師で南画家の古曳盤谷で、盤谷は諸国遍歴の末に松本に定住し、家塾を開いて多くの門人を育てた。
浮田一蕙(1795-1859)は、京都に生まれ、尊皇画人の先駆けである田中訥言に師事した。訥言は、粉本に依存し衰退していた当時の土佐派、住吉派の画風に不満を持ち、平安・鎌倉の古典絵画に原点を求めて活路を見出そうと、大和絵の復古を提唱していた。一蕙もまた、師と同様に大和絵の復古を掲げ、尊皇思想を信奉した。
一蕙が最初に松本を訪れたのは天保14年(1843)で、子の松庵とともに京都から木曽路を経て松本に入り、松本宮村町(現在の松本市中央町3丁目)の神官である牟礼氏宅に滞在した。2度目は、嘉永5年(1852)の10月に訪れ、翌年の2月頃まで滞在している。この時は、のちに安政の大獄に関係する松本藩の勤皇の志士・近藤茂左衛門とその弟の山本貞一郎兄弟の誘いだったといわれている。
当時から一蕙の画名は高く、多くの人たちが絵を求めたが、一蕙は請われれば誰にでも描いて与えたという。滞在中に多くの作品を制作し、屏風なども数点描いている。また、松本で一蕙に師事したものとしては、窪田畯叟がいる。窪田は、本名を八右衛門といい、勤王の志が厚く、「信飛新聞」を創刊した自由民権家・窪田畔夫の父である。
その後一蕙は、安政5年(1858)の安政の大獄に連座して投獄され、翌年釈放され京都に戻ったが、その5カ月後に65歳で没した。
浮田一蕙(1795-1859)うきた・いっけい
寛政7年京都生まれ。姓は藤原、のち豊臣に改めた。名は公信、のちに可為。字は士師、通称は内蔵輔。別号に一蕙斎、為牛、為仏子、谷神子、瑞草などがある。浮田は宇喜多とも記し、安土桃山時代の武将・宇喜多秀家の末裔を自称していた。また、秀家が豊臣秀吉の猶子となっていることから、自身も「豊臣」姓を名乗った。23歳頃から復古大和絵派の田中訥言と、宮廷絵師土佐派に画を学んだとされる。尊皇攘夷の志しを有し、安政5年の安政の大獄で投獄され翌年釈放されたが、同年、65歳で死去した。
長野(15)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、松本平の近代美術、江戸の絵画