上田藩御用絵師をつとめた狩野永翁(1731-1805)は、実名を勝信といい、生まれは奈須氏だった。奈須氏は絵師の家系で、代々江戸の中橋狩野家の門人となって狩野派の技法を学んだ。上田藩御用絵師としての奈須氏は、永翁勝信の祖父・永翁英勝が元禄5年に召し抱えられたのに始まり、その子永隆章信が継ぎ、永翁勝信、永隆宗泉と続いた。号は「永翁」と「永隆」を、それぞれ一代おきに襲名している。
永翁勝信は、父永隆章信の没後、宝暦6年に家督を相続した。安永3年までは奈須永翁と名乗り、天明4年からは狩野永翁に変わっていることから、この間に狩野家から狩野姓を許されたと思われる。
永翁勝信の跡は、子の永隆宗泉が継ぎ、永隆宗泉が天保6年に72歳で没したあとは子の宗得が継いだが、宗得は絵師ではなく「茶道方」だったことから、奈須氏が絵師として上田藩に任えたのは、四代143年だったことになる。上田藩において数代に渡り絵師としてつとめたのは奈須氏だけで、その画業は上田地方の文化に少なからぬ影響を与えている。
掲載の「四季生花図」は、六曲一双屏風の12面すべてに籠の花器に生けられた花が描かれたもので、永翁勝信は、このような生け花の手本となった「花卉図」を多数描いている。
狩野永翁(1731-1805)かのう・えいおう
享保16年生まれ。名は勝信。父は奈須永隆章信、母は玉蘭。はじめ祖父の名を継ぎ奈須永翁と称した。父の没した宝暦3年に上田藩の絵師となり、その3年後に家督を継いだ。天明4年頃から狩野永翁勝信を名乗った。天明3年浅間山大噴火が起き、大凶作だった翌年、藩主・松平忠学の命により金地に「飛龍図」を描き、領内の科野大宮社、紺屋町八幡社などに奉納した。文化2年、75歳で死去した。
長野(3)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、長野県美術大事典