坂本龍馬のブームはたびたび起こっているが、最初の大きなブームは、自由民権運動期の明治16年、坂崎紫瀾が坂本龍馬を主人公にした小説「汗血千里駒」を土陽新聞に連載したことにはじまる。第2次ブームは、明治37年、日露戦争開戦前夜、明治天皇妃の昭憲皇太后が葉山で静養していた折、坂本龍馬を名乗る人物が皇后の夢枕に立って日本海軍の守護神になる覚悟を伝えたという話から起こった。そして第3次ブームとなるのが昭和3年で、この年には、5月27日の海軍記念日に桂浜の「坂本龍馬像」が除幕され、阪東妻三郎主演の映画「坂本龍馬」が封切られ、昭和天皇即位記念に十二代酒井田柿右衛門が有田焼の坂本龍馬の胸像を多数制作した。昭和4年に高知の日本画家・公文菊僊(1873-1945)が描いた龍馬の肖像画は大流行し、第一次頒布で2000部を超えたという。
公文菊僊は、龍馬人気で肖像画を求める多くの人に応じて膨大な数の龍馬像を描いている。他にも高知の日本画家では吉永梅里や谷脇素文が龍馬像を残している。梅里や素文の龍馬像は、菊僊の龍馬像に細部の表現が酷似していることから、菊僊の作品をベースにしたものと思われる。また、高知洋画の先駆者・国沢新九郎も龍馬像を描いている。国沢の龍馬像は龍馬の没後に写真を元に制作されたとされるが、国沢は土佐藩の軍艦・夕顔丸の艦長をつとめており、龍馬と面識があったと思われるため、龍馬のひととなりの一端を伝えているともされる。昭和3年に設置された桂浜の「坂本龍馬像」の作者である彫刻家の本山白雲は、維新の志士たちの彫像をはじめ、多くの銅像を制作し銅像制作の第一人者となった。
公文菊僊(1873-1945)
明治6年高知市街鉄砲町生まれ。本名は時衛。高知県尋常中学校では楠永直枝の指導を受けた。明治25年の卒業後に上京して久保田米僊について四条派を学び、人物画を得意とした。土陽美術会にも参加し、歴史人物画などを描いた。社会教育の立場から坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山(半平太)ら維新の志士らの肖像画を多く描くようになった。特に龍馬の肖像画は、昭和3年の桂浜の龍馬像建立からはじまった龍馬人気の高まりの中で、肖像画を求める多くの人に応じて膨大な数を描いている。伯爵・田中光顕の推挙で大正天皇にも坂本龍馬像を献上している。昭和20年、疎開先の千葉県において、72歳で死去した。
吉永梅里(1866-1937)
慶応2年高知県南国市生まれ。家は稲吉屋という旅館兼料理屋を営んでいた。本名は亀太郎。今井小藍に画を学んだ。稲吉屋は父の代までは栄えていたが、梅里は商売を好まず番頭に任せきりで、店はなくなり借家住まいとなった。襖を張って生計をたてていたという。軸や襖絵のほか、絵馬も描いた。島内松南や下司凍月とも交流があり、土陽美術会にも会員として参加した。昭和12年、71歳で死去した。
谷脇素文(1878-1946)
明治11年高知市生まれ。本名は清澄。12歳で小松洞玉に狩野派を学び、のちに四条派の柳本素石に師事して、師の一字をもらい「素文」と号した。同門には島内松南、下司凍月らがいる。一時は高知市高等小学校で図画教師を勤めたが、のちに上京して橋本雅邦に師事し、油彩の勉強もした。帰郷後は新土佐新聞を経て高知新聞社に入社、「ポンチ絵」と呼ばれた痛烈な社会風刺漫画を制作した。その後再度上京して講談社に入社、山田はじめとともに川柳漫画を発表した。風刺と人情味あふれる作品を多く残している。土陽美術会の会員として日本画も制作した。昭和21年、69歳で死去した。
高知(22)-画人伝・INDEX