能勢一清(1790-1857)は、江戸後期を代表する薩摩藩の絵師で、木村探元の高弟・能勢探龍の曾孫にあたる。幼いころから画を好み、森玄心に学ぶが、15歳の時にその門を辞して、狩野探幽、木村探元に私淑した。特に探元については画法をよく修得した。また、和漢の古典を研究しており、画域が広く、比較的多くの作品が残っている。
一清の門人としては、幕末明治期に活躍した実子の内山一観をはじめ、常に師から画才を称賛されていたが早世した八木松濤軒、絵を学ぶとともに詩歌、書、茶道、華道などもよくした下河辺行廉、都城出身の中原南渓、そして後に油彩画に転向する床次正精がいる。
能勢一清(1790-1857)
寛政2年生まれ。能勢探龍の曾孫。名は泰央、通称は武右衛門、小字は十郎次。別号に浄川軒、烹雪庵、静得、懐徳庵、黙観、心斎がある。狩野探幽、木村探元に私淑し、よく探元の画風に迫る作品を描いた。伊集院の広済寺のもとめに応じて十六羅漢図を描いた。嘉永6年の花尾神社改築にあたっては、社殿内の格天井に草花図を描いた。「楼閣山水図」「草蘆三顧之図」など比較的多くの作品が残っている。安政4年、68歳で死去した。
内山一観(1823-1897)
文政6年生まれ。能勢一清の実子。内山次右衛門の養子となった。諱は盛爾、通称は四郎右衛門。別号に浄雪軒、松泉軒成清がある。文久2年藩主館内の絵画を描いた。明治15年内国絵画共進会に出品し褒状を受けている。明治30年、75歳で死去した。
八木松濤軒(1829-1854)
文政12年生まれ。名は兼亮、通称は吉二。12歳のころから能勢一清について学び、常に師からその画才を称賛されていたとされるが、作品は確認されていない。嘉永7年、26歳で死去した。
下河辺行廉(1829-1888)
文政12年生まれ。通称は藤蔵。別号に細香盧、桑蔭、玄香堂、観耕堂、景洲、老筍翁がある。能勢一清に絵を学ぶとともに、詩歌、書、茶道、華道などもよくした。明治21年、60歳で死去した。
鹿児島(23)-画人伝・INDEX
文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース