薩摩の絵師は、江戸に出て木挽町狩野家あるいは鍛冶橋狩野家に学んだものが多かったが、谷山洞龍と山口洞月は例外的に表絵師の駿河台狩野家に学んでいる。いずれも四代目当主・狩野洞春美信に学んおり、薩摩の絵師で、駿河台狩野家に入門したのはこの2人だけである。
谷山洞龍の作品としては、指宿白水館所蔵の「山水図」が伝洞龍作とされているが、画中に白文方印「谷山氏」とあるだけで、子の探成の作品の可能性もあるなど、洞龍作とは確認されていない。また、藩主・島津重豪の命を受けて、医者で本草学者の曾槃と国学者の白尾国柱らが編纂した『成形図説』の挿画は洞龍が描いたものとされている。
洞龍に続き、子の谷山探成も、孫の谷山龍瑞も、谷山家は三代にわたって絵師として活躍したが、それぞれ、駿河台家、鍛冶橋家、木挽町家に学んでいる。谷山家三代が別々の狩野家に学んでいることや、山口洞月が藩命によって駿河台家に入門していることから、時代の経過とともに、江戸初期には入門先として集中していた木挽町家に、それほどこだわらなくなっていったと思われる。なお、記録に見る限り、薩摩の絵師で上記三家以外の狩野家に入門したものはいない。
谷山洞龍(不明-1811)
名は美清。谷山探成の父親。初号は探楽。駿河台狩野家四代目当主・狩野洞春美信に学んだのち、画道の功により大進法橋に叙せられた。文化8年死去した。また、文化元年、曾槃と白尾国柱らが藩主・島津重豪の命を受けて著した『成形図説』の挿画は洞龍が描いたものとされている。
山口洞月(不明-1811)
本姓は平氏、名は美賢。奥山正蔵の二男として生まれ、奥山元陽と称した。寛政6年に山口典左衛門篤好の養子となった。幼いころから絵を学び、のちに御細工所の絵師になった。寛政8年に藩命によって江戸に出て駿河台狩野家四代目当主・狩野洞春美信の門人となった。作品は鹿児島県立図書館所蔵の「山水図」が残っている。文化8年死去した。
鹿児島(21)-画人伝・INDEX
文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース