江戸時代から盛岡藩内で作られていた南部絵暦は、文字が読めない人でもわかるように、農具、生活用具、十二支中の動物の絵などを使って構成した暦で、田山暦と盛岡暦がある。歴史的には田山暦が古く、早くから中央でも知られており、盛岡暦は、田山暦の影響を受けて盛岡城下で作られたものである。
盛岡暦をはじめて作成したのは、盛岡藩お抱え彫師兼摺師の舞田屋理作である。田山暦と盛岡暦の相違点としては、田山暦が伊勢暦の形を踏襲した横長型の折暦であるのに対し、盛岡暦は縦長型で、当時各地の暦屋がら発行されていた一枚刷りの略暦の様式を用いている。摺り方も、田山暦が大小多数の木版を使用して一枚一枚捺印して作成していたのに対し、盛岡暦は一年分を一枚の版木に彫って刷る一枚刷りとしている。
また、田山暦が農作業の目安にするために作られ、田山とその周辺の農民を対象にしていたのに対し、盛岡暦は当初から商業目的で作られ、広く南部藩一円で頒布するために作られている。盛岡暦は、一枚刷りで壁に貼って見やすいという利点もあってよく利用され、近世後期から明治初年にわたって発行され、発行部数は多い年には15000部を数えたという。
舞田屋理作(不明-不明)まいたや・りさく
盛岡城下生姜町神明前に住んでいた。生没年およびその他の経歴について詳しい記録は残っていない。南部藩お抱えの彫師兼摺師で帯刀も許されていたという。盛岡城の襖も手掛けたと伝わっている。
岩手(16)-画人伝・INDEX
文献:江戸の判じ絵 : 再びこれを判じてごろうじろ、藩政時代岩手画人録