池野観了(1753-1830)は、能登国羽咋郡赤住村(現在の志賀町赤住)の真宗大谷派恩敬寺住職の子として生まれた。幼いころから仏典に親しみ、成人してから伊勢の西弘寺恵林和尚に学んだが、まもなく京都に出て本願寺の高倉学寮に入学し、宗乗・餘乗を究め、寮司の学位を授けられた。
また、仏教の奥義を究めるかたわら、南画家の池大雅に入門して画を学びはじめた。観了が24歳くらいの時に大雅が没したため、大雅に師事した期間は長くはないが、帰郷して恩敬寺十四世の住持となってからも、終生大雅様式の追究を試み、周囲からは「能登の大雅堂」と呼ばれた。
常に京都と赤住の間を往復し、画事に仏門に多忙な生活を送っていたが、50歳を越えるころから病弱となり、文化2年(1805)に隠居して画業に専念した。作品は、出身地である志賀町に多く残っており、ほかには能登地区をはじめ観了と交友のあった北陸の寺院に点在している。
また、同じ能登国羽咋郡出身の山崎雲山(1771-1837)は、漁師の家に生まれ、青年期に京都に出て当時の著名な文化人たちと交流して独自の画境を開いたが、孤独を愛し俗人との付き合いを嫌ったため、世間に受け入れられず、京都での生活は困窮していたという。晩年に帰郷し、能登一円を遊歴し、各地に作品を残した。
池野観了(1753-1830)いけの・かんりょう
宝暦3年能登国羽咋郡赤住村(現在の志賀町赤住)生まれ。恩敬寺第十世住職・藤原覚円の子。幼名は左京。僧名と雅号を観了といい、別号に蘭山、恩敬主人、東明、逍遙などがある。京都の高倉学寮で学び寮司の学位を受けた。そのかたわら南画家の池大雅に師事し画技を学び、大雅没後も大雅様式を追究し「能登の大雅堂」と称された。文政13年、78歳で死去した。
山崎雲山(1771-1837)やまざき・うんざん
明和8年能登国羽咋郡滝村(現在の羽咋市滝町)生まれ。名は吉、通称は瀧吉、字は元祥。別号に亀岩、文軒、石洞陳人、雪芙蓉道人がある。幼いころから画が好きで、青年期に京都に出て長期に渡り滞在し、頼山陽、貫名海屋、野呂介石ら多くの文化人と交友し、播磨や紀伊などの諸国に遊歴した。天保初年頃に帰郷し、しばらく金沢にいたが、天保5年羽咋に帰り、能登一円を遊歴し各地に絵を残した。天保8年、67歳で死去した。
石川(11)-画人伝・INDEX
文献:志賀町史紀要 郷土の文人画家池野観了図録 第1輯、新加能画人集成