画人伝・茨城 洋画家 動物画

文展で「山羊の画家」として注目され、のちに風景画のスタイルを確立させた辻永

辻永「夾竹桃と山羊」茨城県近代美術館蔵

辻永「夾竹桃と山羊」茨城県近代美術館蔵

中村彝とほぼ同世代で、文展、帝展で活躍した茨城ゆかりの画家に辻永(1884-1974)がいる。辻は広島の生まれで、父の転勤の関係で生後7ケ月で水戸に移った。中村彝より3歳年長で、同じ旧制水戸中学校に通っていた。父が書画骨董や西洋野菜の栽培などを好んでいたこともあり、幼いころから書画に親しみ、草花の写生をしていた。

明治34年、画家を志して東京美術学校西洋画科に進んだ。同学年には、和田三造、山下新太郎、橋本邦助、児島虎次郎らがいた。2、3年生のころからは、橋本邦助、柳敬助、熊谷守一、和田三造らと5人で、借家での共同生活をはじめ、3年の時に第9回白馬会展に初入選した。美術学校卒業後は、福井中学校の図画科教師に赴任、1年の任期を終えて東京に戻った翌年の明治41年に、末弟とともに東京府渋谷村下渋谷(現在の渋谷区恵比寿)に移って山羊園「永光舎山羊園」を開き、本籍もここに移して永住の地とした。

山羊園では30頭の山羊を飼い、弟は山羊の乳をしぼり、兄の永は山羊をモデルに画を描いた。辻が集中的に山羊を描いていたのは、山羊園を始めてから大正9年にヨーロッパに渡るまでの約11年間のことで、作品の発表は、明治40年から始まった文展や白馬会展とそれを引き継いだ形の光風会展において行なわれた。

特に文展には、ほぼ毎年山羊の絵を出品し続け、「山羊の画家」として広く知られるようになった。その後も文展で実績を重ね、渡欧中の大正9年には無鑑査に、帰国後の大正11年には中村彝らとともに審査員に推挙された。ヨーロッパからの帰国後は、西欧の模倣ではない、日本人としての独自の油絵を目指し、試行錯誤の期間を経て、昭和10年ころから風景画のスタイルが確立させていった。

辻永(1884-1974)つじ・ひさし
明治17年広島市生まれ。父の転任により水戸市に移住。明治34年旧制水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科予備科に入学(翌年本科)、岡田三郎助に師事した。明治37年第9回白馬会展に初入選。明治38年、洋画の技法書『洋画一班』(飯島書店刊)を刊行。明治41年渋谷に居を構え、山羊園「永光舎山羊園」を開き、山羊をテーマに制作した。明治43年文展に「飼われた山羊」を出品。以後入選、受賞を重ね「山羊の画家」として注目された。明治45年第1回光風会展出品、大正7年光風会会員。大正9年渡欧し翌年帰国。大正11年帝展審査員。昭和5年30余年にわたる花の図を集めた『萬花図鑑』を(全8巻)刊行。昭和10年帝展改組に際し不出品を表明し第二部会を結成。昭和22年帝国芸術院会員となった。昭和33年日展初代理事長。翌年文化功労者となった。昭和49年、90歳で死去した。

茨城(27)-画人伝・INDEX

辻永展-<山羊の画家>の軌跡、水戸の先人たち、開館20周年記念 茨城県近代美術館所属作品、茨城県近代美術館所蔵作品図録 1997、笠間日動美術館所蔵品目録、茨城県近代美術館所蔵作品図録2




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