立原杏所(1785-1840)は、水戸彰考館総裁・立原翠軒の長男として水戸下市横竹隈に生まれた。杏所の号は邸内にあった杏の木によったという。画をはじめ林十江に学び、ついで翠軒の門に集まっていた宮部雲錦や小泉檀山らの影響を受け、画僧・月僊に私淑し、画技を学んだと思われる。江戸に出てからは谷文晁の門に学び、渡辺崋山、椿椿山、高久靄崖とともに谷文晁門下四哲のひとりに数えられた。
水戸藩に出仕し、藩主斉昭からの信任も厚く、小姓頭をつとめた。渡辺崋山、椿椿山らとも深く交わり、蛮社の獄の際に渡辺崋山が捕らえられると赦免運動に奔走した。杏所の門からは、金谷鈴木半兵衛重時、宮部之升、桃源父子、薬種商化竜加納与衛門らが出ており、長女の春沙、次女の竹沙、三男の朴二郎も父のあとを継いで、画や和歌などを残している。
参考:周囲に理解されないまま37歳で世を去った奇才・林十江
参考:尾張の画僧・月僊と伊勢の門人
立原杏所(1785-1840)たちはら・きょうしょ
天明5年水戸横竹隈生まれ。立原翠軒の長男。名は任、字は子遠、または遠郷、通称は甚太郎、のちに任太郎。別号に東軒、弾琤舎、香案小史などがある。学問は父・翠軒に学び、画ははじめ林十江に学び、のちに月僊に私淑し、さらに谷文晁の門に入り、中国元明の画蹟を学んだ。水戸藩主武公、哀公、烈公に仕え、それぞれの公命によって、描かれた作品も多い。天保11年、56歳で死去した。
茨城(11)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、水戸藩 藩士画人の世界、茨城の美術史、水戸の先人たち