磯浜(現在の大洗町)に生まれた桜井雪館(1715-1790)は、雪舟に私淑し、江戸に出て画塾を開き、門弟は2百余人を数えたという。雪館の父・桜井担も画をよくし、祖父も画家で、師の桜井才次郎忠重は、徳川光圀にその画を称賛され、桜井と字叔任氏の二印を送られるほどの画人だったと伝わっている。
父も祖父も、ともに雪舟九世と称した等禅という長門の雲谷庵の画僧に学んだとされ、その因縁から、雪館も雪舟の画風を慕うようになり、江戸に出て雪舟の遺蹟を集め、雪舟派の復興を企て、素朴で豪放な画を描いた。安永元年には、雪舟の画に対して見識を示した画則を著し、自らを雪舟十二世と称した。
伊勢寂照寺の住職・月僊や立原翠軒の門に学んだ宮部雲錦も雪館に学んだとされ、ほかにも若いころの谷文晁が雪館の画席に出るなど、当時の江戸画壇における雪館の影響は大きかったと思われる。娘の雪保も画をよくし、甥の雪鮮も雪館の風を伝えた。
桜井雪館(1715-1790)さくらい・せつかん
正徳5年磯浜生まれ。名は館、字は常翁。別号に山興、雪士、三江、萱園隠士などがある。父桜井担、祖父も画家だった。桜井才次郎の門人で江戸での門弟は二百余人といわれる。雪舟の遺蹟を集め、雪舟派の復興につとめ、画則を著し、自ら雪舟十二世と称した。山水、人物を得意とした。寛政2年、76歳で死去した。
桜井才次郎(1678-1753)さくらい・さいじろう
延宝6年生まれ。水戸藩士で画をよくした。名は忠重、桜井雪館の師。元禄8年水戸光圀が68歳の時、光圀の命により吉田、静、稲田の三社に奉納する四神の旗を描いたとされる。宝暦3年、75歳で死去した。
茨城(7)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、茨城県立歴史館報(12)、特別展 櫻井雪保 知られざる女流画家 雪館と歩んだ絵画の道